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【一灯照遇 No.42】「教育」という言葉に対するちょっとした反抗


先日、ある会社の教育担当の方から、下のようなメールをいただいた。
(前段略)
少し話は変わりますが、コロンビア大学のサーマン博士という人が
「社会における教育の役割とは?」
との記者からの質問に対して
「質問の仕方が違うのではないですか?
『教育における社会の役割は?』と聞くべきだ。」
と答えたそうです。つまり、
「教育は、社会の一部ではなく、社会から派生したものでもなく、
教育こそが最初から人間とともにあり、人間の最も根源的な営みである」
ということです。

全部繋がりますね!
我々はとてつもなく尊貴な仕事をさせてもらっていると思いませんか!?
また機会があれば、鬼滅の刃読んでみてください笑。

という内容。
この、サーマン博士の言葉からは、社会が教育を支えているのではなく、教育が社会を支えていると考えることができる。教育が主で社会が従なんだと。

そう考えると、「教育は組織をマネジメントするために必要」という考えは当てはまらないことになる。組織論やマネジメント等とは関係なく、教育は人が人であるために必要なものだ、と読むことができる。


私も、教育が組織論やマネジメントに従属しているかのような営業トークをしているが、これは見直す必要がありそうだ。
いただいたメールは、前回のこの通信に載せた「金を残すは三流 名を残すは二流 人を残すは一流」という野村監督の言葉に対してのものであると思う。

我々は人を育てるという仕事をさせていただいている。育てるということは、人を残すことでもある。考えてみると、人を残すというのは、誰もが日々の営みで行っている行為だ。こども、きょうだい、後輩や部下。
金や名を残すことは一人でもできる。しかし、人を残すことは一人では決してできない。そしてお互いの関係構築は言葉や行動を介して行われる。

「対話」「問答」「試合」「見取り稽古」「技を盗む」などを通じて「情報」「意思」「感情」「技術」の伝達が行われる。どうやら「教育とは、言葉と振舞いに託して人を残すことである」ということができそうだ。しかも、それは伝える側の一方的な動機だけではうまく作用せず、先輩後輩、上司部下、師と弟子、親子の双方にしっかりとした信頼関係と向上心、志や愛情がなければうまくいかない。

人間は、頭を開いて考えていることをすべて見せることはできない。何かを伝達するとなると、自分の言葉や振舞いに託すほかない。自分の伝えたいことすべては伝わらない。しかも、言葉数や無駄な動きが多ければ多いほど相手には伝わりにくい。だから発信する方は、言葉の感覚や手本となる動作を研ぎ澄ます訓練が必要だ。そして受け取ったものをどう解釈して昇華するかは、受け手の感性にゆだねられる。


ゆだねた後は、期待したり、願ったり、祈る。「まっすぐ育ちますように」「正しく伝承されますように」「会社が健全に存続しますように」…
これは人の命に限りがあるからであろう。いつまでも隣で見守ることができればいいのだけれど。人事を尽くした後は天命を待つのみである。

ここまでをまとめてみると、
①教育の目的は「残すこと」「繋ぐこと」である。
②それは言葉や振舞いに託して行われ、
③お互いの信頼と感性によって正しく行われる。
ということであろうか。
さらに、これらは教育しようと意識する・しないに関わらず、日常的に行われている。
④なぜなら教育は、人間の根源的な営みであるからである。
であれば、とても当たり前のことであるが、
⑤人は一人では成長しない。

さてここにきて、この「教育」という言葉に違和感を覚えるのは私だけだろうか。この行為は双方向的なものであるにもかかわらず、教育という言葉からは「教え、育てる」という一方的な雰囲気を私は感じてしまう。発信者側にも、結果がイマイチなら創意工夫が求められる。

「教え・教えられ、育て・育てられ」という意味が伝わるなにか良い言葉はないものか…。
大事なのは実行・実践だ。表現してこそ価値がある。人間の活動はすべてその人を表現したものだ。どのタイミングでトイレに行くか、道のどこを歩くか、何を残したか。人間は全員表現者だ。その人の人生が表情や言葉、芸、振舞い、タイミングに顕れる。そしてそれらは訓練で磨くことができる。磨く…磨く…磨く…?あ!『切磋琢磨』だ。


『論語』の切磋琢磨における、孔子と弟子とのやり取りがその答えではないか。

何を磨くのか。才能や人格である。もしかすると、この「切磋琢磨」こそが教育の本質を表している言葉かもしれない。この2人の問答にあるように、貧しくともへつらわず・学を好み、豊かでも驕らず・礼を尽くす人になるために、またそのような人を残すことも、私たちの役割なのだろう。

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