サムライ瞑想 No008

第一章 サムライの死生観と瞑想  第二節 サムライの日々の心身鍛錬
第一項 武芸での身体操作、の続き:
  第二項 心は”所作/立ち振る舞い”に表れる
  第三項 身体操作の極意:心と身体の緊張を解くこと
です。
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第一章 サムライの死生観と瞑想

第二節 サムライの日々の心身鍛錬

第二項 心は”所作/立ち振る舞い”に表れる

々のサムライのトレーニングは、芸術としての芸能より戦闘術としての武術が主となっている。そして帯刀はサムライの象徴であるので、特に剣術のトレーニングがその中心と考えられる。武術のトレーニングは身体的なものであるが、サムライは所作(立ち振る舞い/礼儀作用)を追求することによって、心のとレーニングもおこなっている。
 
剣を扱うことを“剣術”と呼んでいるが、近代では“剣道”と呼ぶことが多い。これは、戦闘技術としての剣術に精神的トレーニングの要素(精神性)が加わることで、“剣術”“が“剣道”に昇華したといえる。戦闘行為が激減した江戸時代には、“本来殺人のための剣さえ、人を生かすために使う”とする観念である”活人剣”が、剣術指南の中にでてきたという。実戦の減少により、身体的なトレーニングにとどまらず精神的なものにもサムライが注目し始めたものと考えられる。
剣術と剣道の関係のように、戦闘技術に精神性が加わると、呼び名が“武術”から“武道”に変わるのだ。多くの人が、武術と武道の違いを無視して、同じ意味で用いている。しかし、この武術と武道の違いは心と身体の関係を理解する上で重要である。そこでサムライ瞑想では、この二つの言葉を本来の意味で用いている。
 
武術から武道に変わったものとして、剣道、弓道、柔道、などがあげられる。さらに日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた修験道にも“道”という言葉が入っている。
修験道は、宗教であるため、精神性に趣をおいた心的トレーニングを行うのは当然である。しかし一見すると、修験道の自然の中でのトレーニングは身体的なものに見える。ところが身体的トレーニングは実際に心的トレーニングを兼ねることがあるのだ。この二つのトレーニングの関係を説明するためのキーワードがある。それは、“所作”という言葉だ。
“所作”とは、一般に立ち振る舞いのことを指しているので、“形式化されていない身体操作”と言える。一方で武術は、形式化された身体操作となる。
仏教では、この“所作には身、口、意の働きが表れる”とされる。ここで“身”とは行動や行為であり、形式化されていない身体操作術の部分である。そして“口”は言動を、“意”は意志を表している。この二つは心に由来するから、所作/立ち振る舞いという身体操作には“心の働き”が表れることになる。このような観念は当然のことかもしれない。というのも、所作/立ち振る舞いでの身体操作は形式化されておらず、そしてこの様な形式化されていない身体操作には思考や意志などの心的部分を必要とするはずであるからだ。
 
武術において、効率のみを追求した戦闘技術だけでなく、“所作/立ち振る舞い”にも趣をおき始めると、そのトレーニングの中に心的(精神的)部分が含まれるようになり、結果として “武道”となっていく。
芸能の中には初めから精神性に特化したものがあり、これらは主に所作/立ち振る舞い”に趣をおいている。その中の一つが茶道である。
茶道の根本原理は、客に対する“もてなし”の心である。そこで、もてなしの心を習得するための心のトレーニングをするのが茶道と言える。このもてなしの心は、亭主(ホスト)が茶を立てる時の“所作/立ち振る舞い”に表れ、その振る舞いを客が目にする。さらに、客が見ていようが見ていまいが関係なく、このもてなしの心は最終的には亭主の立てたお茶に宿ると考えるのである。
 
サムライは、様々な武芸の修練において、“所作”に注目することにより、肉体的トレーニングだけではなく、心的トレーニングもおこなうと結論付けることができる。

第三項 身体操作の極意:心と身体の緊張を解くこと

肉体的な身体操作と精神的な所作/立ち振る舞いを追求することには、共通した重要ポイントがある。それは、”心身の緊張を解く”ことである。
 
武術における立ち振る舞いは、非戦闘時の心と関連した身体操作のことだ。言い換えると、戦闘準備段階における戦闘技術以外の心のトレーニングのことを指示している。そしてこれはまさに、心身の緊張を解放するためのものと言える。
戦闘中の身体操作の能力を100%発揮するためには、準備段階で心と身体の緊張を解く必要がある。芸能でも、準備段階から本番まで、全てが所作に関わっているので、同様に無駄な緊張は、そのパフォーマンスを低下させる。また書道や華道など作品制作時に緊張していると作品の質が低下するのも同じである。 

武術や芸能での身体操作は定型化されており、心(精神性)と関連のある“所作/立ち振る舞い”の身体操作は型が定まってはいない。
剣術では剣の使い方が、柔術では受身が、舞踊では踊る動作が、雅楽/邦楽では楽器の演奏法が、さらに茶道でも茶の点て方が、それぞれ定型化されており、これら定型化された身体操作のためのトレーニング内容もそれぞれの型式に依存して決まってくる。これに対して“所作/立ち振る舞い”のように動き方が決まっていないと、身体操作が不定型のためにそのトレーニング方法も決まった型が無い。そして現代人にとっても、自由に選べる方法で“所作/立ち振る舞い”を追求することができることになる。

“心身の緊張を解くこと”は、武術や芸能での共通した極意ともいえる。必要な時に習得した身体操作技術を十分に発揮するには、“緊張を解いた”状態で身体を準備しておく必要があるからだ。
また武術や芸能では、定型化した身体操作をある程度習得すると、この定型化した身体操作の最中に如何に力を抜くか、ということが次の課題となる。身体操作の邪魔をする緊張は、定型化した身体操作の質を低下させるだけでなく、武術では対戦相手に、芸能・芸道では客に伝わってしまう。心身は相関しているので、心の動揺などの心的緊張も身体的緊張と全く同じ状況である。アスリートでも”メンタルが弱いのが問題“とか、”周囲の期待がプレッシャーとなって力が発揮できない“という人がいる。これは心が緊張していることが原因となっており、そして最終的にこの緊張を解くことができた者のみが、武術や芸能・芸道の達人と呼ばれることになるのだ。

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 前回から、一カ月以上経ってしまいました。
項目が細分化されてくると、大きな流れが見えなくなってしまいます。
時々サムライ瞑想 No001の目次も参照頂ければ幸いです。
またお立ち寄りくださいませ。。
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