3人を生きる-アナタの知らない三つ子の話- vol.9 努力ともがき
小学校の自分と高校の自分を比べると、2人と自分自身の捉え方が随分と変わったように思える。
小学校の頃なら、私が一番、という優越感。一番優秀なのだという心の余裕と子供ながらの自信。
しかし、高校の私にあるのは、私が一番の落ちこぼれ、という劣等感。何も光を持たぬ凡人という虚無感。
こうやって、文字にしてみると、ほぼ真反対じゃないかと笑いさえこぼれてくる。
しかし、実際にそうだったのだ。私は自分を好きになろうとする私よりも何も持っていない自分と思い嫌う自分の方が大いに顔を出していた。
そうなっている私は、自分を嫌う自分が情けなくて、どうにか変えようともがいた。友人に勧められたハンドメイドに没頭したり、執筆活動に力を入れたりして、どうにか「私」というものを手に入れたかった。
2人はそんな私を褒めてくれた。周りにも自慢してくれた。私にも作ってと言って、ハンドメイドのイヤリングを作ってやると、とても嬉しそうにしてくれたし、小説を書けば、読んでくれて細かい感想を並べてくれた。素直にそれは嬉しかったし、ありがたかった。
それでも、2人を遠くに感じていることは変わりなくて、私が幾らハンドメイドと執筆に没頭しようが、2人との距離が縮んだ気はせず、「私」というものも見つけられずにいた。
いつからか、自分のもがきさえもがフリに思えてきた。
もがいているフリ。努力しているフリ。俯瞰して見る第三の自分がそう指摘していた。
変わろうと思っているのに、その変化への努力を怠っている気がして、自分に腹が立った。自分が自分を甘やかしているようで情けなかった。
私は努力しているのだ、という感覚にただ乗っかっているだけのような気がした。
ぐちゃぐちゃとした感情を両親に吐露したことがあった。両親は「お前は努力の子だ。お前は頑張っている」と私を慰めた。しかし、それは私にとって慰めには受け取れず、努力の子を演じ続けなければならないというプレッシャーとなっていた。それは、ただのフリでしかないのだ、と否定しかできない自分が両親の慰めの言葉を拒み続けた。
勉強を頑張っていたのは、ちっぽけでくだらない自尊心を保つため。
総務や部長になろうと必死だったのは、称賛欲を満たすため。
己の質の向上なんて気にしない。ただ、ただ、誰かに認めてほしい一心だった。その一心は、悲しくも怠惰な私の上辺だけの努力に繋がった。
それが、空っぽの自分を作り上げてしまった。外の殻ばかりを作り上げて、中身は何もない。ひび割ればかりの卵の殻のような自分だった。
2人を見ている内に、思ってしまったのだ。
ひたすらに、自分のやりたいことに打ち込んでいるその姿に私は、自分の姿を向かい合わせて、感じてしまった。
自分のやっていることを努力と思っていないその姿こそが、努力そのものの姿であると。
努力は他者に対して使う言葉であって、自分に対して使ってはいけないのだと。
自分に対して使ってしまえば、それは毒になるのだと。
何が中途半端な努力だ。そもそも努力などしていなかった。努力だと錯覚していただけのただの自己満足な低レベルな行為だったのだ。やりたいことに対して生半可な気持ちで臨んでいる行為に過ぎなかったのだ。
そう思ってしまった私は、顔を上げると、もう、2人が米粒ほどしか見えない距離にいるように思えた。
彼女らのようになりたい。
2人に追いつこうとした私は、もう、目が見えなくなっていた。見えているのは、先を行く彼女らだけになっていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました! 自分の記録やこんなことがあったかもしれない物語をこれからもどんどん紡いでいきます。 サポートも嬉しいですが、アナタの「スキ」が励みになります:)