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山内昌之「将軍の世紀」|寛政改革の行詰り (4)「寛政異学の禁」の周辺

歴史学の泰斗・山内昌之が、徳川15代将軍の姿を通して日本という国のかたちを捉えることに挑んだ連載「将軍の世紀」。2018年1月号より『文藝春秋』で連載していた本作を、2020年6月から『文藝春秋digital』で配信します。令和のいま、江戸を知ることで、日本を知るーー。今月登場する将軍は、第11代・徳川家斉です。

※本連載は、毎週水曜日に配信します。

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   現代の日本人は、徳川政治体制が儒教・封建思想の体現として家康の時代から構造化されていたように思いがちだ。徳川の近世も後期になると、時間を追うに従って儒教が普及したのは事実であるが、体制思想として儒教が正式に採用されたわけではない。松浦静山によれば、すでに明和安永の頃に節倹が厳しくなった時、幕府は昌平坂の聖堂を「第一無用の長物」として取り崩そうと思案したという。御側御用取次たちが奥右筆組頭に対して、聖堂に安置あるは神か仏かと尋ねると、奥右筆はたしか本尊は孔子とか云うと答えた。すると御用取次たちは、孔子とは何かと問う。奥右筆は論語とかいう書物に出ている人だと聞き及ぶと答えた。ここで御用取次らははたとうなずき、林大学頭が聖堂崩しになると唐(もろこし)へ聞こえても外聞が悪いと言った意味が分かった。それではしばらく崩しを見合わせようとなった(『甲子夜話』1、巻四の三五)。

 あまりにも出来過ぎた話である。幕臣のレベル低下という解釈も成り立つが、そもそも儒教を統治理念とした体制でない以上、幕吏に定信のような教養を期待しても無理というものだ。黒住真氏によれば、林羅山以来の林家はよく官学と称されるが、それは長いこと朝廷にあった文章道の菅原家・大江家、明法道の中原家、算道の小槻家らの「博士家」のように幕府の抱えた家学だったというのだ。林家の施設が昌平坂学問所として官に移されるのは、やっと徳川後期の一七九〇年代つまり定信の時代にすぎない。彼がこれから触れる寛政異学の禁を出したのは、すでに見たような幕府人材の払底による統治体制の弛緩への危機感からであった(『複数性の日本思想』)。大体にして、林家そのものが歴代当主や啓事(門下生監督役)に人を得なかった事実は、漢文に熟達した朝鮮通信使から多少なりとも揶揄されてきた。吉宗の将軍襲職の時、祝賀に来た使節の製述官・申維翰(シンユハン)は三代目林鳳岡(信篤)を長者の風があると評しながら、その文章は「拙朴にして様をなさない」と厳しく、日本の官爵はすべて世襲なので学問がいかに高くても信篤(林家)の下に入らないと登用されず、「可笑しいことだ」と触れていた(『海游録』二〇)。

 そこで定信は柴野栗山(彦輔)次いで岡田寒泉(清助)などを聖堂儒者に登用してテコ入れを図った。六代林鳳潭(ほうたん 信徴)が若くして死に、温和ながら何事にも右顧左眄する養子・七代林錦峰(きんぽう 信敬)の時代、寛政元年末になると、聖堂維持費に使うべき年貢収入を他に流用したり、鳳潭の後室(未亡人)の公私混同などで「林家又々内乱はじまり候由」と揶揄され、とても教学のリーダーシップを果たすどころでなかった。この後室は「放蕩転婦」だという評判が立つ。「転婦」とは「みずてん」(不見転)くらいの意味だろうか。天明七年春にすでに「愚姦後家」と悪評をとった女である。遊び人らを集めて博奕をやるわ、芝居小屋の多い堺町に繰り出して役者をあげて博奕し逗留するわで、あまりの「放蕩至極」に孝子の大学頭もあきれ果てた(『よしの冊子』上、四。下、十二)。とんだ聖堂の御母堂様もいたものだ。しかも、出が高家・前田左少将長泰の娘だというのにも驚く(『寛政重修諸家譜』22、巻千四百八十八)。

 定信もさすがに目をむいたはずだ。定信は天明八年の「心得」に、旗本に似合わず三味線を弾き浄瑠璃を語る者もいれば、河原者(歌舞伎役者)の真似をする者もいると「我儘なる行跡」に警告を発していた。この手合いはみな本妻がおらず「召使」に家内を任せるから家政で物事が軽々しくなるというのだ。まさか、礼法を学ぶ高家に生まれ育った正室が莫連まがいだとは定信の理解を絶しただろう(『甲子夜話』6、巻九十の三。『続篇』4、巻四十三の三)。高家といえば、定信の仕切った寛政三年春から夏の頃に、大澤右京大夫基之の養父で隠居の定寧(さだやす)は「大放蕩」で有名だった。当主の妻(自分の娘)を役者と「姦通」させ、その役者を自分の「頑童」にするなど「言語道断の振舞」で評判が悪くても、隠居なので家への咎めはなかったのである(『よしの冊子』下、十六)。定信は、寛政五年に七代林錦峰が死ぬや、美濃・岩村藩主松平乗薀(のりもり)の子・乗衡(のりひら)を第八代とし、聖堂の人事権と出納権を幕府に移した。まさに林大学頭家も「義気」の衰えた幕府旗本御家人の一員にほかならないからだ。とかく不評判の「放蕩転婦」に家政と聖堂の仕切りを混同されてはたまらなかった。祖父が享保改革の老中・乗邑だった乗衡は衡(たいら)と改名し、やがて林家中興の祖・述斎になる。

 定信の改革は第一に寛政異学の禁である。寛政二年五月に林錦峰に向けて出され、聖堂儒者の柴野や岡田にも示された達(たっし)には、幕臣教育の刷新と人材取立てのために慶長以来代々「御信用」の学問だった朱子学を「正学」として改めて認定し、「学術純正ならざるもの」として「異学」を排斥するとあった。結果として異端とされたのは、陸象山・王陽明の陸王学(陽明学・心学)、伊藤仁齋・東涯の古義学、荻生徂徠の古文辞学などであった。

 第二に、昌平坂学問所を学問教育と学問吟味の場所としながら、試験制度を通して幕臣たちの政治意識と学問標準の均質化を図ろうとした。それは朱子学の教えを学ぶことで役人たる武士の精神に政治哲学を浸透させ、政教一致を定信ひいては寛政の改革で目指すべき理想の統治形態にしようとしたのだ(真壁仁『徳川後期の学問と政治』)。

★次回に続く。


■山内昌之(やまうち・まさゆき)
1947年生、歴史学者。専攻は中東 ・イスラーム地域研究と国際関係史。武蔵野大学国際総合研究所特任教授。モロッコ王国ムハンマド五世大学特別客員教授。東京大学名誉教授。
2013年1月より、首相官邸設置「教育再生実行会議」の有識者委員、同年4月より、政府「アジア文化交流懇談会」の座長を務め、2014年6月から「国家安全保障局顧問会議」の座長に就任。また、2015年2月から「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」(略称「21世紀構想懇談会」)委員。2015年3月、日本相撲協会「横綱審議委員」に就任。2016年9月、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の委員に就任。
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