私の中にも森さんは住んでいる|大橋未歩
文・大橋未歩(フリーアナウンサー)
「私の中にも森さんは住んでいる」。これは、森喜朗氏が放った女性蔑視発言を受けて、私が生放送で言ったことである。もし私がマスメディアに身を置いていなければこんなことを言うこともなく、蔑視発言に断固抗議の声を上げたかもしれない。
森氏の発言をニュースで耳にした当初、私はゾッとするような憤りを覚えた。「わきまえろ」ってどういうこと? ニューヨーク・タイムズが報じたとも聞き、日本の恥さらしじゃないかとさえ思った。
しかし、森発言の中身をよくよく見たとき、今度は全く違う意味でゾッとした。私も以前、彼とほとんど同じ発言をしていたことに思い当たったのだ。
森前会長は「女性は競争心が強い。だから次々に発言して会議が長引いて困る」と言った。実は私はある番組で「女子アナは競争心が強いよね?」と揶揄された時「男性アナの方がライバル心すごいですよ」と返したことがあったのだ。悲しいかな、これは本心だった。男性アナ同士のいさかいを見たこともあったからか、そんな認識が私の中で定着していた。「男性アナ」で括って、「競争心が強い」と断じる。立場が違うから批判されなかっただけで、私の中にも森さんと同じような差別意識が存在しているのかと不安になった。
「優しい差別」という言葉をご存知だろうか。私はこの言葉を、取材で出会った障害を持つアスリートから聞いた。障害者に向けられる悪意無き差別のことだ。例えば障害者が何かに挑戦すると、結果にかかわらず「よく頑張ったね」と周囲からは讃えられる。障害者を聖人君子のキャラクターに押し込める風潮もある。障害を抱えていたって、人間だから時には汚いこともずるいことも考えるのに。そのアスリートは、これらを「優しい差別」と表現した。
人は差別しようと思わなくとも、いとも簡単に差別の当事者になりうる。皆ギリギリのところに立っている。そんな意識で今回の騒動を見てみると、そこはかとない不安感に襲われた。森批判で声を上げている人たちの言葉には「男っていうのは」と男性をカテゴライズしたり、「老害」というあからさまな高齢者差別が散見されたからだ。
反差別のムーブメントが、差別を伴っているような違和感。何故、差別を批判する人が、差別をする人になってしまうのだろう。
その背景には、集団化と、それを後押しするマスメディアの存在があると私は思っている。SNSで森前会長を糾弾するコメントに多くのいいね! が集まり、集団は急速に大きくなっていった。私たち人間は、集団の中に身を置くと、進む方向に疑問を持たなくなることがある。皆が同じ方向に進んでいる安心感があるのかもしれない。同調圧力も集団を強化するかもしれない。
そしてその集団化に拍車をかけているのは、私が20年近くご飯を食べさせてもらってきたマスメディアだと思う。営利企業たる民放テレビ局には「悪人」の登場を心待ちにしている一面もある。悪人叩きはコンテンツとして容易に成立してしまうからだ。
もちろん、今回の森発言をきっかけに女性が団結し、声を上げたことは重要だ。このような闘争を繰り返して、誰もが生きやすい社会が少しずつ構築されていくに違いない。しかし、ここで自己点検の姿勢を失うと、いつの日か手にする「平等な世界」が新たな差別に溢れてしまいやしないだろうかと不安になる。
だから私はマスメディアに身を置くものとして、まず自己点検をしたかった。「私の中にも森さんは住んでいる」と。よほど気をつけないと、自分も差別の当事者になりうる危険性を社会と共有したかったのだ。
ちなみに発言したのは「5時に夢中!」(TOKYO MXテレビ)という番組内でのこと。この番組の出演者は、どんな少数意見だとしても本音で話す。そして、正義側に身を置かず、過去の失敗談を包み隠さず話して人間の愚かさを笑う。世間の物差しから言えば失言が売りの番組だから、視聴者にも出演者の発言を疑いながら観るという視聴習慣が根付いている。「5時に夢中!」と視聴者との間に存在する「信用しないし、信用させないという信頼関係」は、マスメディアにおける良心のひとつだと私は思っている。
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