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日本人は本当に“お上頼り”の国民なのか|三浦瑠麗

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※本連載は第44回です。最初から読む方はこちら。  

 前回は菅政権が掲げた「自助、共助、公助、そして絆」という公約に関する論争を取りあげ、日本社会における自助努力を重視する価値観について述べました。今回は、日本人は一般に考えられているほどお上頼りの国民ではないし、お上のことが好きでもないという仮説について考えたいと思います。

 福祉関係の支出を増やそうとする上では、政府や公的セクターに対する信頼感が重要な役割を果たすという研究があります。ここでは、いわゆる鶏と卵の関係が生まれてしまう。お上が信頼に値する存在として見られていないがために福祉拡大が支持されず、またそれゆえに利益や利便性を得たという実感が生まれないので、お上は信頼に値する存在とみなされにくい、という悪循環が生まれてしまうということです。政府に対する信頼感の高低は、政策にも影響を与えるし、政策からも影響を与えられます。

 そもそもなぜ、人びとは政府を信頼しないのでしょうか。典型的に思いつくのはスキャンダルや政局です。政権が目まぐるしく交代して安定しなければ、当然政治不信が生まれます。日本は短命政権が比較的多いから、それで説明できる部分もあるかもしれません。とはいえ、時間軸における信頼感の上下はそれで説明できても、より基礎的な部分の信頼感の低さに関しては日本特有の社会的背景があると考えた方がいいでしょう。

 国際比較で言えば、日本は政府への信頼が安定的に低い国です。日本での実施にあたって電通総研と同志社大学がかかわった「世界価値観調査」では、回答者の政府に対する信頼度は39.8%でした(日本では最新版が2019年に実施)。これは調査対象国のなかでは低い方です。また、エデルマン社の「トラストバロメーター調査」では、2020年中間レポートで日本はコロナ禍中に政府に対する信頼が低下した唯一の国だったと指摘されています(2020年1月~5月にかけて5ポイント低下し38%)。これは日本政府が特段コロナ禍に対する対応を間違えたからということではありません。ほぼ日本のみが政府への支持が低下した理由については、すでに本連載で取り上げました。

 ここでいう政府への信頼とは何でしょうか。国によってまったく別のイメージで語られている可能性があるので注意が必要です。新型コロナウイルス発生初期には、それまでの通説である「政府に対する信頼度と感染制御の成功とのあいだには連関があるのではないか」ということが指摘されていました。しかし、これは少々疑わしい主張だと私は思います。例えば、人々の政府に対する「信頼」は、法の確実な執行への期待と結び付いているので、罰則付きの行動制限に従う率は高まりますが、むしろ感染制御にあたっては人々の同質性や自律性の方が大きな役割を果たしがちだからです。また、日本や韓国などの民主国家は政府に対する信頼が元々低いのですが、感染制御に成功しているし、同じく感染制御に成功している中国のような権威主義国家において、人々の政府に対する信頼が高いとする調査結果をそのまま鵜呑みにすべきではないでしょう。

 例えば、新華網は2017年にエデルマン社の「トラストバロメーター調査」を引用し、政府に対する信頼の高さが中国は76%で世界1位であったと報じています。しかし、調査対象国中最下位につけたフランスやイタリアと同じ意味でこの政府に対する信頼を捉えてよいわけがないでしょう。一口に政府への信頼といっても、国によってまったく別個の文脈で理解されているということです。信頼の低さは人々の独立心とも関係していることに注意していただきたいと思います。

 もしも日本人が政府から自律的な独立心の高い存在なのだとすれば、政府はむしろ人々の生活に介入することの方に努力を払ってきたはずです。実際、近代日本におけるお上は国家と人々とのあいだに新たな関係を結ぼうとして、国民生活に介入を深めていきました。政府は富国強兵をめざし、普通教育を義務化する過程で私的な領域に介入します。戦後になると、GHQが日本を非軍国主義化するために文化教育政策を行い、官僚機構は国際基準に倣うために上からの改革で社会慣習に介入するようになりました。こうしたお上による介入は、それ以前の日本社会に根っこを持つ価値観と時に摩擦を起こします。日本における「放っておいてくれ」という感情は案外根強いものなのではないでしょうか。

 なぜそうかと言えば、政府を信頼すると答えない日本の国民性は、政府がひどいことをするからというわけではなくて、単に放っておいてくれという感情に基づいていると考えられるからです。中国国民が政府を信頼すると答えるのは、政府がいいことばかりしてくれるからではないはずです。むしろ、政府の言うことには従わなければならないと考える結果として、政府を信頼すると答えるほか選択肢を知らないということでしょう。日本人はこれだけ同質性が高く、オリンピックなどのスポーツでも勝つと盛り上がりナショナリズムを発揮する国民なのに、誤解を恐れずに言えばどこか「ひねくれて」いるのは、やはり自律性が高い国民だからだと考えるべきだと思います。

 意識調査を鵜呑みにしないためにどんな注意が必要なのか、聞き方によってこれだけの印象の差が生まれるという実例を示しましょう。すでに本連載で取り上げた通り、「日本人価値観調査2019」では次のような問いを聞いています。「一般的に、国の制度に頼る前にまずは自助努力が必要だ」回答者のうち、これを肯定する人の割合は実に74.0%に上ります(反対は16.6%)。もし多くの人々が、現在の日本社会は国の助けが圧倒的に足りないのだという強い問題意識を持っていれば、あまりそう思わない、とか、どちらともいえないと答える人の割合がもっと増えたでしょう。

 しかし、異なる印象を与えるのが、前出の「世界価値観調査(2019)」です。そこでは次のような選択肢から選ばせる形で聞いています。

「国民皆が安心して暮らせるよう国はもっと責任を持つべきだ」
「自分のことは自分で面倒を見るよう個人がもっと責任を持つべきだ」

 これだと、前者の国の責任を重視する考え方が75.9%を占めます。つまり日本人価値観調査とは自助努力と公助とどちらを重視するのかという配分が逆転し、設問によって全く異なる印象を生む結果が示されるということです。ではどちらが本当なのでしょうか。

 結論から言えば、両方とも真実の一側面です。しかし、より人々の本音に近いのは「日本人価値観調査」に表れた自助努力を重視する考え方でしょう。価値観というのは複雑なものです。表層の心地よい選択を超えた、トレードオフをえぐりださなければ本音は現れません。

 「日本人価値観調査」ではもっと露骨な聞き方もしています。「生活保護などの貧困対策にこれ以上予算を使うべきではない」この表現を肯定した人は全体の40.0%で、反対の45.8%を下回りますが、すでに本連載で触れた通り、賛成と反対の分布に大きな党派性はありません。簡単に言えば、自民党支持者だから生活保護をケチり、野党支持者だから生活保護を増額したいと思っているわけではないということです。そして全体の4割がこの表現を正面から肯定している以上、75.9%の人が「国民皆が安心して暮らせるよう国はもっと責任を持つべきだ」という主張に賛同しているという「世界価値観調査」の結果は割り引いて考える必要があることがすぐにわかるでしょう。

 次回は、まもなく第2回の住民投票を控える大阪都構想を例に、政治が人びとの価値観に与える影響を論じたいと思います。

★次週に続く。

■三浦瑠麗(みうら・るり)
1980年神奈川県生まれ。国際政治学者。東京大学農学部卒業、東京大学大学院法学政治学研究科修了。東京大学政策ビジョン研究センター講師を経て、現在は山猫総合研究所代表。著書に『日本に絶望している人のための政治入門』『あなたに伝えたい政治の話』(文春新書)、『シビリアンの戦争』(岩波書店)、『21世紀の戦争と平和』(新潮社)などがある。
※本連載は、毎週月曜日に配信します。