山内昌之「将軍の世紀」|北方問題の開幕 (2)松前藩・アイヌ首長領・ロシア
歴史学の泰斗・山内昌之が、徳川15代将軍の姿を通して日本という国のかたちを捉えることに挑んだ連載「将軍の世紀」。2018年1月号より『文藝春秋』で連載していた本作を、2020年6月から『文藝春秋digital』で配信します。令和のいま、江戸を知ることで、日本を知るーー。今月登場する将軍は、第11代・徳川家斉です。
※本連載は、毎週月曜日に配信します。
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いつの時代でも国家浮沈の試練は、国内不安と対外危機が結合した時に生まれる。家斉と定信が日本政治の舵取りに当たった時期は、幕府・大名の財政赤字と旗本・御家人の士道頽廃による社会不安だけでなく、寛政三(1791)年の英国船アルゴノート号の博多湾侵入や、寛政四年のロシア使節ラクスマンの根室来着による開国・通商の圧力と重なっていた。これは幕府による統治の正統性が朝廷・天皇との関係で動揺にさらされた時期にあたっている。
ロシアは、一六八九年(元禄二年)に清朝(康熙帝)と結んだネルチンスク条約で陸の南進をひとまず抑えられ、毛皮獣の狩猟者らは北太平洋に移動して千島(クリール)列島の探検を始めた。ロシア人はクロテンやセーブルなど各種の毛皮を求め、先住民族からヤサーク(貢納)として毛皮を徴収し、千島アイヌとも衝突を引き起こすようになる。日本側でその南進を抑え北方の安全保障を図る責務は、幕藩体制の最北に位置する松前藩が担うはずだった。しかし、この藩の軍事動員力は心もとない。定信が老中を解任されてから五年後にあたる寛政十年の「松前藩家中及扶持人列席調」が残っている(『松前町史』史料編一)。それによれば松前藩の家臣団は、諸士二百二十九名、足軽九十六名、地侍役付者二十四名を合わせて総数三百四十九名となる。似た規模の小藩として、嘉永五年(一八五二)時点の岡山藩池田家分家・鴨方藩(二万五千石)における八十石以上の給人二十三家、四十二石以上の士分九十四家、徒・軽輩百三十四家、都合二百五十一名と比べると(磯田道史『近世大名家臣団の社会構造』)、無高の松前藩の武士数の方が百名ほど多い。松前藩の家中が藩主の同族や過去の館主に由来する御寄合列に始まり、准御寄合列―弓の間詰―詰組列ー大書院列―長爐列―大広間列といった城中詰間によって格付されており、これらが「御内證御礼」や「御内礼列」という名称に始まる家老や用人以下の役職に就いたのである。名称の異同を別にすれば、普通の藩とさほど変わらない。松前藩が特異なのは知行体系であり、支配所持(場所持)と切米取に分かれていることだ。
前者は長爐列以上の家臣に分け与えられた鰊や鮭の漁場であり、藩主も直領漁場に藩士同様の商船を送ったのは奇観というべきだろう。しかし、東蝦夷地の場所はもともと先住民族アイヌの首長領であった。家斉・定信の時代には、アッケシ(厚岸)のイコトイ、ノッカマップのションコ、クナシリ(国後)島のツキノエらであり、彼らは根室からカムチャツカまで千八十八キロほどに二十四の島々が連なる海域で独自の商業ネットワークを持ち、日本人とロシア人の市場や取引を仲介する役割を果たしていた。彼らの仲立ちがなければ、当時の日本で珍重されたラッコの毛皮も入手できなかっただろう。それは長崎から中国に輸出され、「皇帝のクッション」と呼ばれたほどだ(ブレット・ウォーカー、秋月俊幸訳『蝦夷地の征服』)。ツキノエたちの威厳と余裕は、画家にして藩家老の蠣崎広年(波響)の朱色も鮮やかな夷酋列像図からも偲ばれるだろう(中村真一郎『蠣崎波響の生涯』)。アイヌ首長たちのまとう蝦夷錦は沿海州のウリチ人など「山丹人」から得た清朝の衣服であり、新井白石が蟒緞(ぼうどん)と呼んでいるものだ(『蝦夷志』)。サハリン・カムチャツカ・千島列島の商業ネットワークで手に入れた贅沢品である。幕府巡見使に同行した古川古松軒は、「最上の錦においてはそのうつくしき、織紋の細密なること、いわん方なし」と日本の錦も及ばないとする。かつてウルップ島から到来した綴(つづれ)の錦(ふわふわした織物)・猩々緋羅紗(緋色の羊毛織)は、船が難破を恐れて近年松前方面に来ないために珍品だという(『東遊雑記』巻七)。
藩主直領場所の一つは根室に近いノッカマップである。そこに安永七年(一七七八)六月、「戍士」(警固役)として新井田八十左衛門(大八)が来ていた時、イルクーツクの商人シャバーリンらの一行が渡来した。驚くべきことに、新井田は通商を求めるロシア人から藩主宛の書翰と音物をいともたやすく受け取った。蝦夷地での日露最初の接触は、何の騒擾もなく実現したのである。新井田は工藤八百右衛門とともに、音物の「鏡」「こつふ盃」「とくり」の受け取りを一点ずつ書いた。これは日本も交易をはなから拒否しないのでは、とロシア人に期待させたかもしれない行為だ(谷本晃久『近世蝦夷地在地社会の研究』)。それでも新井田はやがてペリーに対した幕府のように、明年来るべしと応えて意図せざる出会いを切り上げた。翌年七月に同人はアッケシに再来した。藩儒・新田千里の書いた『松前家記』は初回も今回も「岐伊達府」(霧多布)に来たとし、幕臣・佐藤玄六郎は最初をキイタツフとする。ロシア人はそれぞれ二十九人、四十八人、再来の時に応対した藩士は松井茂兵衛と工藤清右衛門はじめ十五名であった。蠣崎波響の甥に当たる藩主・松前道広は、松井らに命じて「海外ト通商スル厳ニ国法ノ禁スル所ヲ以テ之ヲ諭ス」(『松前家記』三、『松前町史』資料編一。佐藤玄六郎『蝦夷拾遺』別巻、国会図書館DC、六十二~六十三コマ)とし、先年の書翰と音物を返却した。帰国にあたり寸志として、米十五俵・酒・煙草・煙管(キセル)を渡すと、御返しとして松井ら上乗役三人に砂糖三包、目付に砂糖二包を呈された。日本側は船用に少しだけ受け取り残りは返している。儀礼の範囲内とはいえ外国人と物品を堂々と交換していることには驚く(『通航一覧』七、巻二百七十三)。これなども「士商兼帯」としばしば揶揄される松前藩ならではの自然の反応だったのかもしれない。
松平定信は、松前藩のもとで蝦夷地問題と対露関係が結びつく北方問題を幕府の関知なしに変更される事態を看過できなかった。松前道広が一存でロシア交易を拒否したのは回答内容が正しくても越権行為であり、幕府に何の注進もしなかったのは論外であった。幕府の指揮なく回答してはならないのだ。しかし沿海州アムール川やウルップ島との各アイヌ首長国を介した物品往来は、「蝦夷松前一円」の自治性を当然視してきた松前藩にとって、国法を犯した抜荷だと懐疑的になりようもなかった。最上徳内が寛政四年にカラフト探検に出た時、松前家中の松前平角が美麗な満州沓を注文して入手しただけでなく満州官人と文通を試みた事実を知った。「異国へ内通して謀叛を行はむ萌しなるやも計りがたし」と仰天したのも当然であろう(島谷良吉『最上徳内』)。
定信は天明八年にすでに本多忠籌(ただかず)と蝦夷地問題について議論を始めていた。幕閣のなかでも定信と忠籌は、どちらかが諒解していることなら「それならよい」と後は役人にまかせるほどで水魚の交わりに譬えられたほどだった(『よしの冊子』十二)。これまで、定信は蝦夷地非開発・松前藩委任、忠籌は蝦夷地開発・幕府直轄化の論者と見なされてきたが、最初から二人の意見が分かれていたわけでない。むしろ天明八年に将軍補佐となる定信は、クナシリ島と「蝦夷国中要害之地」の二か所に津軽・南部・松前の三藩から番兵を配賦する構想を描いた。定信は三藩の勤番体制を長崎警固の佐賀鍋島家と福岡黒田家の体制からヒントを得たと認めている。また、忠籌は蝦夷地に米穀を作らせ、交易・商売の奉行を長崎奉行のように江戸から送るべきだと提案している。これは後に、東蝦夷地を幕領とし、エトロフ島など数か所に幕府の会所を作り、南部と津軽に勤番させる定信退陣後の施策の先蹤ではないだろうか。そうなると二人は、事実上の幕府直轄論の推進で一致していたかにみえると岩﨑奈緒子氏は指摘する。定信は、親交のあった医師・桂川甫周から、ロシアの「随身の兵」が三十万であり、二百隻の「軍船」に四万人の海軍があると強国ロシアの脅威を聞いていたはずであり、その対処こそ「定信の最大の関心事」となるはずだった(「寛政改革期の蝦夷地政策」『史林』97の4)。
■山内昌之(やまうち・まさゆき)
1947年生、歴史学者。専攻は中東 ・イスラーム地域研究と国際関係史。武蔵野大学国際総合研究所特任教授。モロッコ王国ムハンマド五世大学特別客員教授。東京大学名誉教授。
2013年1月より、首相官邸設置「教育再生実行会議」の有識者委員、同年4月より、政府「アジア文化交流懇談会」の座長を務め、2014年6月から「国家安全保障局顧問会議」の座長に就任。また、2015年2月から「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」(略称「21世紀構想懇談会」)委員。2015年3月、日本相撲協会「横綱審議委員」に就任。2016年9月、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の委員に就任。
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