柳田邦男「『犠牲』で救われた」文藝春秋と私 創刊100周年記念企画
「どうしても書き残さねば」その思いが印刷会社まで動かした。/文・柳田邦男(ノンフィクション作家)
次男の自死
四半世紀余り前のこと。
1994年の年明け早々に、「文藝春秋」編集長の白川浩司さんがわが家を訪ねてきた。同誌の4月号で創刊1000号になるので、特集企画の相談をしたいという。
文藝春秋70周年を記念して私の責任編集で『同時代ノンフィクション選集』全12巻の刊行を完結して間もない時期だったこともあって、ノンフィクションジャンルで企画したいテーマは多岐に渡り、話題はあちらに飛び、こちらに飛んで、気がつけば雑談は1時間半にもなろうとしていた。書斎の窓のレースのカーテン越しに、ソファーに座る白川さんの背中にあたっていた冬の柔らかい日射しが、はや翳りはじめていた。
企画に合いそうなテーマがいくつか上がったものの、私の気持ちは、焦点の合わないカメラのレンズをのぞいているようだった。というのは、5か月ほど前に、次男の洋二郎が自死したショックから、いまだ心の整理ができず、取材して書くという作家の日常を取り戻していなかったからだ。
「今日話題にしたことをベースに、私に今、何ができるかじっくり考えてみます。後日また連絡します」
私がそう言って雑談を締めくくると、白川さんは、「じゃあ、よろしくお願いします」と答えて、立ち上がった。その時、突然私の心の中に何かが走った。
「あ、すみません。まったく別の話なんですが、お時間がありましたらちょっと聞いて頂けますか」
私がそうお願いすると、白川さんは、「時間は大丈夫です」と言って、ソファーに座り直した。
実は、その日私の心の中に大きな変化が起こりかけていたのだった。洋二郎の死後1か月ほど経った時、彼の25年の人生と心の病いと死に至る苦悩の日々について、長文の手紙を書き、ごく親しい人に出していた。その一人に、「文藝春秋」元編集部次長の村田耕二さんもいた。
その後、生前の洋二郎が私に向かって何度も突きつけてきた言葉が、毎日のように耳にこだまするようになっていた。
「親父は作家だろ、作家なら他人のことばかりカッコよく書いてないで、自分のことを書けよ、この家のなかの地獄を」
その言葉は、月日が経つにつれて、私を一つの思いに追い込んできた。彼がこの世に生きた証を書かずして、父親としての責任は果たせない、と。とはいえ、どう書くかについては、年明けの時点では、いまだ暗中模索の段階だった。
次男の最期の日々が綴られる
息子への責任を果たすために
白川さんには、洋二郎の死のことは知らせていなかった。会話の中でも、白川さんは洋二郎のことを一言も口にしなかった。しかし、企画をめぐる会話の中でも、どことなく遠慮がちで、私の仕事への取り組みに気遣うような言葉遣いが感じられたので、私は直感的に、《村田さんから聞いて知っているに違いない》と感じていた。もし白川さんが先手を打って、「息子さんのこと、書いてみませんか」と切り出したら、おそらく「まだその時期ではないです」と断っていただろう。
だが、白川さんの控え目な態度ゆえに、かえって私の脳内に、《この機会に思い切って書いたほうが、自分が生き直すためにも、洋二郎に対する責任を果たすためにも、いいだろう》という思いが突然こみあげてきたのだった。心の中は渾沌としていても、発表の場と締め切りという枠の中に自分を追い込めば、洋二郎の「生と死」をめぐって、どうしても書き残しておかなければならないと思うことを絞り出すことができるだろうと決心したのだ。
そう決心するに至ったことには、背景があった。白川さん来宅の直前に、毎日新聞の安藤守人記者との打合わせで、がんの進行した患者が最期まで自分の家で過ごせるように支える新しい在宅ホスピスケアの取り組みのドキュメントを、4月から1年間、毎週1回の予定で寄稿するという仕事を引き受けていたのだ。それは、暗い穴の底で低迷する自分を、ブラックホールに呑み込まれないように草原に引っ張り出して、外気を吸わせようとする最初の“意思の転換”だった。
その内面的な変化があったから、同じベクトルの方向で、洋二郎と共有した人生の記憶を全力で掘り起こして、今こそ追悼記を書こうという第二の“意思の転換”をすることができたのだった。その思いを白川さんに話すと、白川さんはちょっと間を置いただけで決断してくれた。
「その原稿こそ、4月号に載せさせてください。枚数は多くなっても構いません。4月号で収め切れなければ、5月号に後半を載せます。4月号の締め切りは2月20日ですから、あと1か月半ほどしかありません。頑張ってください」
後日、担当編集者に、後に退社して小説家になる白石一文さんがなってくれた。私は1月から2月にかけて、文字通り必死の思いで書いた。洋二郎が生きた日々のこと、日曜日に出かけていたキリスト教の教会での心やさしき友人たちのこと、よく読んでいた内外の小説のこと、ビデオで繰り返し視ていたタルコフスキーの映画『サクリファイス(犠牲)』のことなどを、彼が遺した日記やエッセイや私との会話での言葉などから思い起こすと、書いても書いても、書いておかなければと思うことは尽きなかった。
「削るところは、ありません」
締め切り日が近づいた時、原稿の途中まで40枚ほどをファックスで送り、電話で白石さんに言った。
「申し訳ありません、書き始めたら筆が止まらなくなって。雑誌掲載には、思い切ってコンパクトにしたほうがいいかもしれませんが、とても4月号では原稿が収まり切れないと思いますので、白石さんの判断でバッサリと削ったほうがよいと思うところを、遠慮なく指摘して頂けるとありがたいです」
翌日、白石さんは、電話で、
「削るところは、どこにもありません。洋二郎さんの感性は、ほんとに繊細だったんですね。感動しています。このまま進めて、思いのたけを書いてください。4月号は予定の頁いっぱいに入れて、とりあえずそこで切り、続きは5月号に載せますから、今は枚数のことは気にしないでください」と言ってくれた。
何と深い思いやりだろう。白石さんがすでに書いていた小説の文章には、青春時代の若者のようなみずみずしさがあった。おそらく人間の内面を見る眼の投影だろう。私に対する言葉からは、傷心の中で喪失体験を書こうとする人間への共感をこめた応援の波動が伝わってきた。気がつけば、私は執筆を加速させていた。
こんな経過を辿って、「犠牲―わが息子・脳死の11日」は、「文藝春秋」1994年4月号と5月号の2か月にわたって掲載された。だが、掲載された自分の手記を読み返すうちに、《こんなんじゃない》という思いが強くなってきた。彼の精神のもっと深いところをしっかりと掘り下げて書かなければ駄目だ、と自分に言い聞かせているもうひとりの自分がいた。
《大幅に加筆して単行本にしよう》
その思いを固めると、出版部のノンフィクション担当の飯沼康司さんに相談した。洋二郎が書き残したいくつものエッセイの全文や日記の一部などをきちんと挿入したり、50代半ばを過ぎた私にはなくなっていた彼の感性のみずみずしさや精神性の深いところを可能な限り汲み取って文章化したりすると、原稿は雑誌掲載分の2倍以上に膨らむし、時間もかかるけれど、何とか単行本にして頂けないかと頼むと、飯沼さんは、「頑張ってください。待ちますよ」と約束してくれた。
なぜ追悼記を書くのか
その加筆に1年近くかかり、翌95年春に、新しく構成を整えた完成稿全編を、飯沼さんに渡した。本のタイトルは雑誌掲載時のまま、『犠牲 わが息子・脳死の11日』とした。
だが、5月に初校ゲラが出て、全編を読み直すと、《やっと洋二郎がこの世に生きた証を立てることができた》という納得感は湧いてこなかった。またまたとても“完成”とはいえない気持ちになったのだ。
私は、初校段階だから、多少頁数が増えても対応してもらえるだろうと勝手に判断して、随所に見られた表現の不十分なところや粗いところを、細部にわたり手直ししたばかりか、書くのを控えていた家庭内のプライバシーにかかわる事柄や友人関係の事などをあえて加筆したりして、飯沼さんに朱字だらけの初校を返した。飯沼さんは、真摯な口調で「加筆部分もしっかりと生かします」と言ってくれた。
再校ゲラが送られてきたのは、6月になってからだった。洋二郎の3回忌前に出版して頂けないだろうかという私の願いに対し、飯沼さんは7月15日刊の予定で、校了、印刷、製本、配本の工程を組んでくれていた。再校校正は数日で終えなければならない。だが、再校ゲラを読み始めると、いたるところで、まだまだ表現の不十分なところやもっと丁寧に語るべきだと思うところが目につき、必死になってその朱字入れに取り組んだ。
私はたまたま80年代に、がんで亡くなった人々の闘病記や遺族による追悼記を何百冊も読んで、「人はなぜ闘病記や追悼記を書くのか」という問題に対する答を整理したことがあった。答とは、こうだった。
〈人は愛する人を喪ったり、人生が終わりに近いことを自覚したりすると、心の中は動揺と悲しみの感情でいっぱいになり、事態を冷静に見つめて、これからどう生きるべきかを考えるゆとりのないカオス(渾沌)の状態に陥ってしまう。しかし、そんな中で闘病記や追悼記を書くということ(つまり文章を書くということ)には、次のような意味がある。もともと文章を書くには、主語、述語、目的語、補語などを明確にしなければならない。とりわけ闘病記や追悼記を書くには、直面している事態をもうひとりの自分の眼でしっかりと見つめ直さなければならない。その営みは、大地震によってあらゆるものが散乱した部屋の中を片付けるのに似て、心の中の渾沌を少しずつ整理する作業にほかならない。
そして、自分の状況と内面を文章という客体化された形で見ると、納得する面もあればもっと書かねばと思う面もあり、さらに加筆することになる。その営みの進行によって、心の中の整理がいちだんと進み、前向きに生き直す道標を掴むきっかけとなっていく〉
「人はなぜ闘病記や追悼記を書くのか」という問いに、このような答を導き出していたのを思い出し、まさにその通りの営みを自分がやっているではないかと気づいたのは、再校ゲラの校正を始めてからだった。
朱字で埋めた再校ゲラ
だが、再校の校正は初校段階とは違う。初校校正を終えた時点で、本の頁数が確定し、白頁ながら使用する紙による本の体裁を整えた束見本が作られ、それに基づいて、いよいよ印刷、製本の体制が組まれる。再校で大幅に頁数が増えるということは、通常なら許されないことだ。
私は、そのことを知らないわけではなかったが、洋二郎に対する思いから、ともかく納得のいくまで朱字入れをして、無理だと言われたら諦めようと考えた。それにしても、心積もり以上に時間がかかった。
締め切りの前日、飯沼さんに頼んで、文藝春秋別館の対談や小会議などに使う一室を使わせてもらった。自分を自宅外に缶詰め状態にして校正作業に集中しないと間に合わないかもしれないと思ったからだった。
静かな部屋のテーブルで、黙々と朱字入れをしていると、ノックの音がした。飯沼さんが入ってきて、対面するように座った。
「体調は大丈夫ですか」
気づかってくれる飯沼さんに、私は「ちょっと見てください」と言って、再校ゲラの一部をパラパラとめくって見せた。いたるところに朱字の加筆が入っていて、頁数がかなり増えることは、一目で明らかだった。
「再校なのにすみません、書き足りないところがあまりに多くて。頁数を増やすのが無理でしたら諦めますが、書くだけ書かせてください」
私の言葉に、飯沼さんは一瞬絶句したが、朱字入れの一部に目を通すと、きっぱりと言った。
「何とかします。そのまま進めて、思いのたけを書き込んでください」
ここから先は
文藝春秋digital
月刊誌『文藝春秋』の特集記事を中心に配信。月額900円。(「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了します。今後は、新規登録なら「…