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山内昌之「将軍の世紀」 「みよさし」と王政復古の間(2)本居宣長は松平定信に出会ったか

歴史学の泰斗・山内昌之が、徳川15代将軍の姿を通して日本という国のかたちを捉えることに挑んだ連載「将軍の世紀」。2018年1月号より『文藝春秋』で連載していた本作を、2020年6月から『文藝春秋digital』で配信します。令和のいま、江戸を知ることで、日本を知るーー。

※本連載は、毎週火曜日に配信します。 

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 十一代将軍家斉には尊皇の志が篤いという説がしきりに喧伝された。吹上の庭で美麗な菊を数十本も手折りして京都の光格天皇に届けた逸話などがしきりに紹介される。公家たちが萎れた菊を見るに堪えないと語ると、天皇は遠国から献ずる心が大切、「大樹(将軍)の心の花はさかりなり」と御感斜めならずといった話である(松平春嶽『閑窓秉筆』(かんそうへいひつ))。鶴の献上も同工異曲である。十二代将軍の家慶も黄鷹四居を使ってよく鶴御成をした。獲物が二鶴なら今上(仁孝天皇)と仙洞(光格上皇)に進献、三鶴なら大御所(家斉)にも献上、四鶴なら自分にも使った。中野碩翁が松浦静山に語ったところでは、禁裏でも喜び何かの供御に使ったという(『甲子夜話三篇』5、巻六十一の四)。

 将軍らの逸話は取るに足らないことだ。しかし家斉と定信の在任期に、朝廷でなく幕府が政治を執る根拠は何か、幕朝関係には大政委任があったのか否かなどが一部で話題に上り始めていた。「青漆(静謐)といへどもも(揉)める紙(上)合羽 油断のならぬ天(雨)が下かな」。表向き静かな寛政の世もまかりまちがえば天気も雨に変わるほどというのは、改革の多難な前途だけでなく、黒雲がおおい始めた幕朝関係の前途を占うかのようだ。江戸人は秀逸な歌をとかく大田南畝の作にしがちだが、これはどうも違うらしい(『甲子夜話三篇』6、巻七十の三)。ところで、家斉が将軍になった翌年の天明八年、松平定信が老中首座・将軍補佐として呈上した「御心得之箇条」の第二条に、「古人も天下ハ天下之天下、一人の天下ニあらすと申し候、まして六十余州は禁廷より御預りあそばされ候御事ニ御座候得は、かりそめにも御自身之物ニ思召(おぼしめす)ましき御事二御座候」。将軍は天皇から日本全国を預かったのであり、将軍一人のものでないと注意を促す。そのうえで、「将軍とならせられ天下を御治めあそばされ候ハ御職分に御座候」と、将軍という地位も「職分」(本分たる務め)だと強調していた(『有所不為斎雑録』第三集、第廿四、国会図書館DC13コマ)。これが定信の大政委任論と呼ばれるものだ。

 この主張は、定信がまだ白河藩主にもなっていない天明元年、世子だった時に書いた統治の書『国本論』に原型がある。しかし、両者には微妙な違いもあった。「天は自ら民を治められないために、天子をして民を治めさせる。天子は自ら治められないために、諸侯を建てて民を治めさせる」。ここでいう「天子」とは天皇であるが、天が天子に民を治めよと命じたが、天子は諸侯を封建して民を治めさせたという意味になる。ここでは将軍が言及されておらず、その位置が曖昧である。素直に読むなら、諸侯(大名)の一員に将軍が含まれるとしか解釈の仕様がない。ところが「諸侯邦内を治るは則天子の命にして、是れ天の命ずる所なり」とあり、大名の領国支配は究極的に天子の上にある天の命令だと儒教の教えを正面から出している。天皇よりも天の意志が優先するといわんばかりなのだ。実際に、「是によりて、修る職は天の職にして、治むる民は天の民なり」と職分は「天の職」「天職」とされている(神沢杜口『翁草』4、巻百二十七)。二十四歳の養子として書いた『国本論』と、三十一歳の将軍補佐の『御心得之箇条』との間に差もあるのは当然であろう。


 『国本論』   天→天子(天皇)→諸侯(将軍を含む)
 『御心得之箇条』   禁廷(天皇)→将軍→諸侯

 また、定信は個人として徂徠学を信奉していても、老中という公的立場では朱子学を官学として異学の禁を出したように、公に曖昧な立場や表現を好まない傾向があった。将軍心得は公に将軍や老中の立場を曖昧にせず、家斉やその実父・一橋治済の力を抑える意味でも天という抽象的観念でなく、天皇という具体的クッションを置く方が好都合と判断したのかもしれない。

 他方、定信の『御心得之箇条』より二年ほど前、天明六年に日本を代表する思想家によって定信の大政委任論によく似た議論が出されていた。本居宣長の『玉くしげ』である。もともとは、居住地・松坂の領主たる紀州藩主・徳川治貞に出された文章にほかならない。

「さて今の御代(みよ)と申すは、まづ天照大御神(あまてらすおほみかみ)の御はからひ、朝廷(てうてい)の御任(みよさし)によりて、東照神御祖命(あづまてるかむみおやのみこと)より御つぎつぎ、大将軍家(だいしやうぐんけ)の天下の御政(みまつりごと)をば、敷行(しきおこな)はせ給ふ御世にして、その御政を、又一国一郡と分(わけ)て、御大名(だいみやう)たち各(おのおの)これを預(あづ)かり行(おこな)ひたまふ御事なれば、其御領内(ごりやうない)御領内の民(たみ)も、全(まつた)く私(わたくし)の民(たみ)にはあらず、国も私(し)の国にはあらず、天下の民(たみ)は、みな当時(じ)これを、東照神御祖命(あづまてるかむみおやのみこと)御代々の大将軍家(だいしやうぐんけ)へ、天照大御神の預(あづ)けさせ給へる御民(おんたみ)なり、国も又天照大御神
の預(あづ)けさせたまへる御国(おんくに)なり」。

 宣長の言は、宝暦・明和事件で揺らいだ幕府の統治の正統性を強化し、幕朝関係を幕府優位に再調整する定信の考えを補強するものであった。しかも宣長は、あえて図式化すれば、   

天照大御神→朝廷(天皇)→東照神御祖命(家康)→大将軍家→御大名家

の順序で政治が具体的に下へ委任され、現実の政治は天皇でなく将軍に任される「委任」(みよさし)を初めて合理的に説明したのである。内容においては宗教・神話性の色彩を留めながら、形式においては歴史・論理性をもつ説明をするところに宣長の冴えを感じざるをえない。しかも、『玉くしげ』は、代々の将軍家の「御掟」(おんおきて)こそ、天照大御神の御定めの「御掟」なので背かずないがしろにせず守るように諭した。そのうえで、国々の政治は天照大御神から「預かりたまへる国政」なので、すこぶる大切に執り行い、民も「預かり奉れる御民」だということを忘れず大切に撫育することが「御大名の肝要」だというのだ。

 ところで、「みよさし」をふりかざす宣長は、支配される者の幕府政治への批判と反抗を封じることを目指した思想家だったのだろうか。少なくとも、彼が現実に存在する体制の批判・変革を意図しなかったことだけは確かである。「あまてらす」の「御はからひ」と朝廷の「みよさし」によって、家康以後代々の「だいしやうぐんけ」が「天下のみまつりごと」をとりおこない、大名たちはその「みまつりごと」を預りおこなっているのだ(三ツ松誠「『みよさし』論の再検討」『十八世紀日本の政治と外交』)。これは「六十余州は禁廷より御預り」したと将軍に説いた定信の考えとほぼ同じである。定信が紀州治貞や宣長の門人を通して『玉くしげ』を読んでいた可能性は高い。実際に、宣長とその周辺には、「寛政の三助」らのように、定信のブレーンとして宣長を推す動きもあった。実現すれば江戸時代を通して最大の知性と行政能力をもつ政治家と、誰が選んでも江戸期三人の天才に入る思想家との夢のコンビが歴史上に生まれたはずである。しかも、父の田安宗武は国学者・賀茂真淵を庇護し、定信も国学に通じていた。しかし定信は、宣長を登用しなかった。寛政異学の禁を出した定信の公の立場もさることながら、国学が経世論として微温であり政策の実現プロセスには迂遠だったからかもしれない(岡田千昭「本居宣長の松平定信への接近」『近世日本の政治と外交』)。

 確かに宣長は定信の大政委任論と平仄を合わせるように「みよさし」の論理化を図った。これは「幕藩体制に迎合するものであった」かもしれないが、本居宣長には、定信には『玉くしげ』、朝廷には『古事記伝』を奉呈する「ディッフェレンツィアーツィヤ」(差異化)をあえて図る政治家の側面もあった。つまり、幕府と朝廷を使い分けて宣長学を全国に普及・拡大しようとしたということだ。寛政初期には「尊号一件」をめぐり幕朝関係は緊張の極に達する。そうした時期に、学問成果を武器に双方に登用を働らきかけたとすれば、宣長の政治力はなかなかのものであった。しかし、何事も一方の得は他方の損ということもある。医者ならば友人が健康だからといって喜ぶことはなく、兵士なら自分の町が平和で嬉しいはずがない、ということだ(モンテーニュ『エセー』1、第二一章)。政治では架橋がむずかしい天皇と将軍という二つの巨星を「大政委任」や「みよさし」で両立させるのは、凡人には難しい。しかし、この作業をいともたやすくやってのけるのは宣長が天才だからである。政治的触角では宣長も及ばない定信は、朝廷にも片足を伸ばしている宣長を警戒しなかったはずがない。定信は、天明八年六月に京都、大坂、奈良を経て伊勢神宮に参宮した折、六月十一日に松坂に泊した。二人が会ったか否かは詳らかにしない(村岡典嗣『増補本居宣長』1)。

★次回に続く。

■山内昌之(やまうち・まさゆき)
1947年生、歴史学者。専攻は中東 ・イスラーム地域研究と国際関係史。武蔵野大学国際総合研究所特任教授。モロッコ王国ムハンマド五世大学特別客員教授。東京大学名誉教授。
2013年1月より、首相官邸設置「教育再生実行会議」の有識者委員、同年4月より、政府「アジア文化交流懇談会」の座長を務め、2014年6月から「国家安全保障局顧問会議」の座長に就任。また、2015年2月から「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」(略称「21世紀構想懇談会」)委員。2015年3月、日本相撲協会「横綱審議委員」に就任。2016年9月、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の委員に就任。