山内昌之「将軍の世紀」|「みよさし」と王政復古の間(1)明和事件、山県大弐の悲劇
歴史学の泰斗・山内昌之が、徳川15代将軍の姿を通して日本という国のかたちを捉えることに挑んだ連載「将軍の世紀」。2018年1月号より『文藝春秋』で連載していた本作を、2020年6月から『文藝春秋digital』で配信します。令和のいま、江戸を知ることで、日本を知るーー。
※この連載は、毎週火曜日に配信します。
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人間何が幸いするか分からない。あの事件がなければ、朝鮮使節にも名の轟いた書家・篆刻家としての沢田東江は、ただ朱子学者の秀才として徳川中期の歴史の片隅に名を留めただけに違いない。しかし東江は、大田南畝も含めた多くの友人知己のなかに、山県大弐がいたばかりに明和事件のとばっちりを受けた。儒学を断念して書の道に転じ天明・寛政の江戸文化史に名を残した東江は落書でも、「横倒しても威勢ある物 東江先生 越中守 団十郎」と松平定信や五世市川団十郎と並ぶ名士なのだった(矢島隆教編『江戸時代落書類聚』上巻)。
さて、その山県大弐の一件は、やがて語る大塩平八郎の乱にもまして歴史の先駆者の悲劇である。明和事件は、竹内式部の宝暦事件(連載第二十八回参照)と合わせて王政復古と倒幕謀叛のさきがけといってよい。明和四年(一七六七)に摘発された事件は、京都の朝廷を舞台にした竹内式部の一件と違い、江戸・八丁堀の家塾を中心に上州・小幡藩家老吉田玄蕃を通じて藩主・織田美濃守信邦まで巻き込む武士による反幕運動の性格を帯びていた。しかも、大弐は将軍・家重の側用人として権勢を振るった大岡出雲守忠光にも仕えたことがある。忠光は危篤に際して大弐を「我一代限りの者なり」、死後は暇をとらせよと遺言したという(山田三川『想古録』1、五六七)。忠光は大弐の鬼才ぶりを炯眼にも見抜いたことになるが、実は生前に召し放っていた可能性も高い。
甲斐・巨摩郡に生まれた山県大弐は家塾で儒学・医学・兵学を教えながら、幕藩体制を否定する『柳子新論』(宝暦九年)をまとめたが、幕府を転覆する手法を思いつかなかった。ところが、明和元年(一七六四)閏十二月に信濃から上野・下野・武蔵にかけて日光東照宮百五十回忌法要に伴う助郷役増徴計画に反対する伝馬騒動が起きて、二十数万人が打ち壊しに参加した。これは、商品生産の発展と並んで中山道の伝馬助郷村の拡大で助郷役負担分の貨幣徴収を請け負う商人たちに反発し、藩領と天領の境界を越えた強訴に発展したものだ(久留島浩「百姓一揆と都市騒擾」『岩波講座日本歴史』近世4)。その少し前、宝暦十四年二月には神田新銀(しんしろがね)町から出火、北風烈しく本石町や鍛冶橋内まで広がり、折から滞在していた朝鮮人使節も大火に恐怖したといわれる(斎藤月岑『増訂武江年表』1)。大弐は前者から農兵構想、後者から江戸城攻略のヒントを得る一方、最低十年くらいの教化運動を民衆レベルで進めて、「全国にいくつか中核になる核心諸藩」をつくる実践計画を練ったのではないか。こう類推したのは、一九六七年に『「明治維新」の哲学』(改題『思想からみた明治維新』)を出した分析哲学者の市井三郎であった。市井は、幕藩体制を根本的に転覆しないと庶民を安んじることはできないと信じた点で、大弐を吉田松陰の先駆者と考えた。実際、江戸時代を通して刑場で見事な最期を見せて刑吏を感動させた二人の死刑囚が松陰と大弐だったというのはありそうなことだ。信州上田に潜伏中、講義中に人相書と大弐の風采年齢が符合するのを案じて駆け付けた者に、神色変ぜず顔の似た者は多い、心配するに及ばずと打ち笑い、講義を優々と終わって子弟を帰した後、服装を正して従容として縛についた逸話は何とも松陰の横顔を髣髴させる(山田三川『想古録』1、四四五)。
市井は、幕府が大弐の陰謀計画を「朝廷公卿まで含んだ大謀叛」だととらえた旧幕臣・福地源一郎(桜痴)の見方を紹介し、「革命家大弐の人民主義」を高く評価する。これはロシアのナロードニキ運動を意識したのだろうか。他方、一九六三年にマルクス主義歴史学者の林基は、竹内式部や山県大弐の天皇信奉をロシアのプガチョーフ農民戦争のツァーリ主義めいた傾向と同じく「おくれた、弱い側面」だと強調していた。天皇を反幕運動の「旗印」としたかった点で、幕末の勤王志士らの動きも二人の再演でしかないといずれにも厳しい評価を寄せる。そして、「再演は喜劇であるのに対して、式部らの事業は初演として悲劇であるほかなかった」と、カール・マルクスの「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)を想起させる言い回しを用いた(「宝暦―天明期の社会情勢」『岩波講座日本歴史』近世4)。しかし、松前藩や安中藩に仕えた儒者・山田三川が言うように、大弐は「平生正直ナル人ニテ王朝ノ衰ヲ歎キ懇々人ニ説シトゾ」であり、寛政三奇人の高山彦九郎や蒲生君平を「王朝家」にする影響力を発揮したとすれば、封建時代の水準としては十分に先駆的だったのではないか(『三川雑記』天保八年条)。
大弐は死罪に、竹内式部の門人として式部と大弐をつないだとされる藤井右門直明は梟首(獄門)に、すでに宝暦事件で伊勢に閉居中の式部は改めて流罪とされた。右門は、赤穂浪士の義挙に参加しなかった江戸家老・藤井又左衛門の実子であり、京都の地下の諸大夫・藤井家の養子になったという説明が『国史大事典』『日本近世人名辞典』にある。詳しい素性はどうも謎のヴェールに包まれている。青年公家への孫子・呉子の兵書雑談に不敬ありとされ、宝暦事件が起こると京都を出奔したようだ。上杉鷹山の侍医・藁科貞祐が事件の一年後に或る書簡で述べたように、「これはまことに幕府の指導者が神経を張り詰めねばならぬ時だった」のである(Peter Nosco. Individuality in Early Modern Japan: Thinking for Oneself. NY/London: Routledge, 2018. chp.3)。
林基は大弐が安藤昌益のように収奪や搾取の一掃でなく「制限」を目指したにすぎないと手厳しい。それでも、大弐にフィージビリティ(実行可能性)の観点から低い評価を与えがちな二十一世紀の研究者よりも、市井と林は立場を越えて大弐に注ぐ眼差しが柔らかく感じられる。中野三敏は、「明和の御静謐の御代を震撼させた有名な大逆事件であり、山県大弐の復古勤皇の思想が幕府の忌憚(きたん)に触れて、前年の竹内式部一派と合わせて死罪に処せられた事件だった」とするが、「大逆事件」とはまるで幸徳秋水の明治天皇暗殺謀議の冤罪を連想させる用語法ではないか(『近世新畸人伝』)。他方、政権の末期症状は財政(食)、軍事(兵)の破綻・不足、民心(信)の離反から始まるが、山県は主著『柳子新論』において、この三言を理念として湯武放伐(無道な暴君を天下のために討伐する行為)・易姓革命を正当化し、尊王斥覇の鋳型のうちに徳川政権批判の論を溶かし込み、挙句の果てに山県が刑死するのだから「矯激の度合」は他者と比べものにならないと見なす専門家もいる(小池喜明『武士と開国』)。泰平が続くと、「礼楽」をうるさく説いても世に用いられない徂徠学の儒学者らは、虚喝か自虐的哀調を帯びた「吠声」を立てるしかなく、吠声が悲哀にすぎると、『柳子新論』のように「不穏な怒声」となったと説く研究者も現れた(高山大毅『近世日本の「礼楽」と「修辞」』)。実際に、大弐は徂徠学をも積極的に学んでいた。しかし、竹内式部のように垂加神道に直結する動きはなく、名分論を主題とする尊王論が引き起こした事件だという点を強調する学者もいる(磯前順一・小倉慈司編『近世朝廷と垂加神道』)。
市井が江戸時代に「類を絶したただ一人」の思想家にして実践家と評価し、林が「アジテーターとしてすぐれた才能」を示したとする山県大弐の主著『柳子新論』を少し覗いてみよう。まず最初の「正名第一」で中心思想をこう開示する。「それ文を以て常を守り、武を以て変に処するは、古今の通途にして、而して天下の達道なり。如今(いまのごとく)、官に文武の別なし。則ち変に処る者を以て常を守る、固よりその所に非ざるなり」(平時を守るのは文人であり、非常時に対処するのは武人である。これは古今の通則であり、天下の道理である。今の世には文人と武人の区別がない。非常時に対応する武人が平時を守っているのだ。もとより、それは正しくない)。ここで大弐は、武家政権の徳川幕府が統治の正統性を主張する根拠を正面から否定しているのだ。「計吏宰官の類の如き、終身武事に与らざる者も、また皆兵士を以て自ら任じ、一に苛酷の政を致す」(経理・行政官のように、一生軍事に関与しない者も、みな武人と自任し、もっぱら厳酷な政治を行う)。これは番方だけでなく役方も旗本・御家人が務める徳川政治体制の否定につながる。
「文武第五」の出だしはもっと明快である。「政の関東に移るや、鄙人その威を奮(ふる)ひ、陪臣その権を専らにし、爾来五百有余年なり。人ただ武を尚(たつと)ぶを知り、文を尚ぶを知らず。文を尚ばざるの弊、礼楽並び壊れ、士はその鄙俗に勝(た)へず。武を尊ぶの弊は、刑罰孤り行はれて、民はその苛刻に勝へず」。源頼朝以来の武家政権を否定する激論はそのまま徳川幕府の拒否につながる。「政治が東国に移ると、田舎びとが威光をふりかざし、また者が威権をもっぱらにする。それ以来五百年以上も経った。人は軍事の尊重を知るだけで、文治の尊重を知らない。文治を尊重しない弊害は、礼と楽がともに壊れ士はその卑俗に打ち勝てない。軍事を尊重する弊害は、刑罰ばかり行われて、民衆はその苛酷さに打ち勝てない」。しかも、「今や天下の士たる者、列位すでに広く、冗員倍々(ますます)多し。またただ便宜事を執るのみ。文に非ず武に非ず、彼将に何を以て任となさんとするや」(いまでは世の中で士と呼べる人びとは、その序列や位ともに広く定まっており、余計な人数が多くなる一方だ。ただ便宜的に仕事をするだけである。文人でもなく軍人でもない。当人はまさに何を自分の任務にしようというのだろうか)。
大弐は人材発掘と有効活用に無関心な徳川政治体制に憤りを隠さない。それは中国のように科挙の制度がなく、能力のある者を伸ばさず、能力のない者に望まないことを無理強いし、あげくに人がいないからこうなると、責任を問うのはどうしたことか。「国家に益なき者」を上に挙げて、「天下に用ある者」を抑圧するからこうだと大弐は怒る。こうした非を改め、士をまっとうする道、民を安んじる道を何故に求めないのか、と(「勧仕第八」)。
大弐は「利害第十二」において、誰憚ることなく倒幕の必然性を暗示的に説いてやまない。「苟も害を天下になす者は、国君といへども必ずこれを罰し、克たざれば則ち兵を挙げてこれを討つ」。その大きな例は、中国古代史で殷の湯王が夏を討ち、周の武王が殷を討ったことだ。この「湯武の放伐」は「無道の世」で「有道の事」に成功するなら、こちらは君となり、あちらは賊となる。これは徳川の世を「無道」、将軍を賊と言うのに等しい。
そして天皇は君として「有道の事」を担うと暗示している。さらに重要なのは、「たとひその群下にあるも」(庶民・民衆であっても)、無道の害を除いて、志が庶民・民衆の利を高からしめるなら、「放伐」という行為は仁というべきだと大弐はいうのだ。「民と志を同じうすればなり」と民衆蜂起について、大弐の思想を媒介に反体制のエネルギーに転化させる根拠を掲げる。「天下国家の長たる者は、文ありて後武いふべきなり。礼楽ありて後刑罰行ふべきなり」。ここで文人優先、武人追随を語り、礼節による秩序を罰則に依拠する社会に優越させるのは、武家中心の将軍権力を拒否し、文人優先の天皇権力の樹立の正当性を語っているのに等しいのではないか。『孟子』にもないほど明白に、「民と志を同じう」する限り、「群下」の者でさえ放伐に立ち上がれというのだ。『柳子新論』の思想は、まさに時代を突き抜けていた。寛政の三奇人のうち高山彦九郎と蒲生君平が「勤王」「王室再興」に人びとを奮起させる「膏油(あぶら)」だったとすれば、大弐は「その膏油を激発せしむる火」であった(『想古録』2、九一七)。松平定信は、老中就任の前に出現していた竹内式部や山県大弐の尊皇反幕思想に対し、改めて幕府による統治の正統性を示す必要を痛感したに違いない。
■山内昌之(やまうち・まさゆき)
1947年生、歴史学者。専攻は中東 ・イスラーム地域研究と国際関係史。武蔵野大学国際総合研究所特任教授。モロッコ王国ムハンマド五世大学特別客員教授。東京大学名誉教授。
2013年1月より、首相官邸設置「教育再生実行会議」の有識者委員、同年4月より、政府「アジア文化交流懇談会」の座長を務め、2014年6月から「国家安全保障局顧問会議」の座長に就任。また、2015年2月から「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」(略称「21世紀構想懇談会」)委員。2015年3月、日本相撲協会「横綱審議委員」に就任。2016年9月、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の委員に就任。