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コロナ下で読んだ「わたしのベスト3」 生きることの不可思議さを想う|角幡唯介

このところ毎年のように冬から春にグリーンランド北部で長期間の探検旅行をしている。コロナ禍の今年もそれは変わらず、3月から5月まで2カ月近く犬橇で氷原を放浪していた。探検中は停滞時の暇つぶし用に文庫本を必ず何冊か持参するが、今回は古井由吉『辻』。非日常的な空間のなかで、日常的な人と人との関係の愛おしさや普遍性を表現する文章に触れるたびに、日本に残した家族のことを思い出し、また、偶然という脆く、儚い契機に左右される人生の不可思議さに考えをめぐらせた。

しかしそれにしても、この本を読んでいる間に、まさか世界がこんなことになっているとは思いもよらなかった。なにしろ旅の間はほとんど情報が遮断されており、コロナ禍の詳細をまったく把握していなかったのである。著者の古井氏が亡くなっていたことも、じつは帰国してから知ったことだった。

帰国して2週間の自主隔離期間があったが、その間、どっぷりはまったのが加藤典洋氏の著作だ。『敗戦後論』の太宰論もよかったけど、特に感銘を受けたのが『日本人の自画像』だ。とりわけ本書で展開される本居宣長論が秀逸で、内在と関係の議論が興味深かった。国家が自立するまでの思想的変遷を分析した本だが、一人の人間が自立するまでの過程という観点から読んでも通用する議論だと思う。

自主隔離が終わるのとほぼ同時に移動の自粛も解除され、夏は日高山脈で地図無し登山を実行した。1週間ほどの野営中、『族長の秋』をタープの下の蚊帳のなかで読みふけった。蚊帳のまわりを蛾や羽虫にたかられながら読むガルシア・マルケスの圧倒的なまでの文章と物語の密度の濃厚さは、そのまま夏の日高の山の重苦しさに通じるものがあり、登山も読書も人間の根源に触れるような体験となった。

と、こうして振りかえるとコロナ禍の年とはいえ、例年と同じように探検し、山に登り、本を読んでおり、何も変わらないことに驚くばかりだ。

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