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アントニオ猪木「夢に追われた男」 柳澤健

燃える闘魂は対戦相手ではなく観客と戦っていた/文・柳澤健(ノンフィクションライター)

亡くなったアントニオ猪木 ©共同通信社

猪木は繊細な表現者

アントニオ猪木が亡くなったのは10月1日のことだった。

ネットニュースに訃報が流れた直後から次々にアップされていく無数のツイートを『1976年のアントニオ猪木』の著者である私は、ただ呆然と眺め続けた。

テレビ朝日は追悼番組を組んで過去の映像を大量に流し、NHKは「クローズアップ現代」で異例の特集を組んだ。

私の心に最も深く突き刺さったのは、元女子プロレスラーのブル中野の言葉だった。

《小学5年生の時、テレビで猪木さんの試合を見て「自分は今まで生きていなかったんじゃないか」と思うくらい激しく心を揺さぶられて、プロレス界に飛び込みました》(『週刊文春』10月13日号)

人生に絶望していた10歳の少女に「私も生きてみたい! この人のように」と思わせるプロレスラー。それこそがアントニオ猪木だった。

プロレスラーの入場曲と聞いて誰もが真っ先に思い浮かべるのは「炎のファイター」だろう。

前座試合が終わると、会場に軽快なラテンパーカッションのリズムと華やかな管楽器のメロディーが鳴り響く。だが、曲調が日本人好みのマイナー(短調)だから、明るすぎることなく、どこかに哀愁が漂う。

興奮して花道に押し寄せる観客たちを配下のレスラーがかきわける中、メインイベンターが入場する。

ガウンをキッチリと着て、首にはタオルが巻かれている。黒いリングシューズの紐が常に真っ白なのは、毎試合、新品に換えているから。猪木は繊細な表現者なのだ。

リングアナウンサーのコールを受けて猪木がガウンを脱ぐと、太い首、厚い胸板、筋肉の盛り上がった腕が初めて披露される。

ボディビルダーとはまったく異質な肉体美は、バーベルやダンベルではなく、自重トレーニングで作られたもの。自らの体重を使って、あらゆる角度に身体を動かす。腕立て伏せやスクワット、ブリッジ、さらにロープや鉄棒、吊り輪を使ったトレーニングを無数に行うことで、単純な筋力ばかりでなく、持久力とパワー、スピードと敏捷性が高いバランスで保たれた。

馬場と比べて猪木は……

アントニオ猪木のプロレスの特徴はレスリングの匂いがすることだ。

プロレスがプロフェッショナル・レスリングの略語であることは言うまでもないが、相撲出身の力道山の空手チョップや、プロ野球出身のジャイアント馬場の十六文キックや椰子の実割りには、レスリングの片鱗も感じられない。

一方、猪木のジャーマン・スープレックスもアントニオドライバーもコブラツイストもダブルリストロックも、源流はアマチュアレスリングにある。

横浜市生まれのアントニオ猪木は11人兄弟の六男。14歳の時にブラジルに渡り、3年後にサンパウロにやってきた力道山にスカウトされて帰国、日本プロレスに入門した。

デビュー戦は1960年9月30日の台東区体育館。対戦相手は大木金太郎だった。

同日にデビューしたジャイアント馬場は規格外の体格の持ち主で、元・読売巨人軍の投手だったことが示すようにエリートアスリートでもあった。翌1961年7月、馬場は早くもアメリカに渡り、悪役レスラーとして大成功を収めた。

馬場に比べれば猪木は小さく、運動神経も劣っていたが、猪木には恐るべきスタミナと“闘魂”があった。

「猪木さんは誰よりも練習していた」とは新日本プロレスの多くのレスラーが口にする言葉だ。

アントニオ猪木というレスラーの根本を作り上げたのはベルギー人コーチのカール・ゴッチである。

ゴッチとのスパーリングは痛みを伴った。腕や足の関節をとられるばかりか、時には指までねじられ、亀の状態で守れば、肋骨や脊椎をヒジで強く押され、肛門に指を突っこまれることさえあった。

パワーとスタミナの上にサブミッション(関節技)やダーティーな反則技を含むプロの技術まで身につけた猪木は、リング上でほとんどの対戦相手を制圧することができた。

猪木は自分の技術を勝利のためではなく、試合に緊張感とリアリティを出すために使う。現在WWEで活躍中の中邑真輔が、猪木プロレスの真髄を教えてくれた。

「猪木さんのやり方は、試合中に何かを仕掛けることで、相手にエマージェンシー、危険信号を出させ、生の感情を引きずり出すというもの。リアリティ、本物の感情、本物の技術が存在するからこそ、猪木さんの試合はお客さんの心に響くんです」

プロレスラーが戦っているのは、じつはリング上の対戦相手ではない。観客と戦っているのだ。

猪木の実力は相手を大きく上回る。だが、強い相手が弱い相手を一方的に倒しても観客はおもしろくない。攻めてばかりいるレスラーに声援は集まらない。散々痛めつけられ、危機的な状況に追いつめられた中で懸命に立ち上がろうとする姿にこそ、観客は「がんばれ!」と声援を送る。

アントニオ猪木が試合中ずっと相手の攻撃を受け続けるのは、観客の声援を引き出すためだ。

相手の攻撃を受けまくり、観客の不安が最大限に達したところで、形勢は一挙に逆転。大声援の中、試合はクライマックスを迎える。

猪木のジャーマン・スープレックスは、ロマネスク建築のように完璧なアーチを描いた。

卍固めは複雑かつ完璧なフォルムに加えて、満身に力をこめて絞りあげる猪木の張りつめた肉体と気迫溢れる表情を堪能することができた。

美しい静止画として、アントニオ猪木のプロレスは私たちの記憶に強く刻みつけられている。

若者が熱狂的に支持した

プロレスは社会を映す鏡であり、トップレスラーは時代を象徴するアイコンである。

1950年代、首都を焼け野原にされ、2発の原爆を落とされて無条件降伏を余儀なくされた人々にとって、卑怯な反則行為を繰り返す外国人レスラーを堂々とリング上で制裁する力道山は、日本の正義と復興の象徴となった。

1960年代、“エコノミックアニマル”と揶揄されながら3C(カラーテレビ、クーラー、自家用車)の豊かさを追い求める人々にとって、アメリカで大成功を収めたジャイアント馬場は、高度経済成長期の明るさを体現していた。

そして1970年代、学生運動と安保闘争が何の成果も得られず、過激化したセクトが内ゲバとテロに走る曇り空の時代を生きる若者たちにとって、アントニオ猪木は反逆のヒーローであった。

ここで重要なのは、アントニオ猪木を熱狂的に支持したのは戦後生まれの若者たちであり、大人たちではなかったことだ。

「プロレスを追及するな」

アントニオ猪木が最も光り輝いた1970年代、大人たちの多くは、プロレスを疑いの目で見た。

ロープに振られて跳ね返ってくるはずがない。レフェリーが悪役の反則を見て見ぬ振りをするのはなぜか。生中継番組の終了直前にいつも試合が決着するのはおかしい。5カウント以内の反則や場外乱闘が認められるルールなどあり得ない。

朝日新聞や読売新聞がプロレスをスポーツ欄に載せることは決してなく、NHKのスポーツニュースでプロレスの試合結果が報じられることもなかった。

当然だろう。プロレスはスポーツではなく「結末の決められたエンターテインメント」なのだから。

ふたりのレスラーは勝利を目指してはいない。観客を熱狂させるために一致協力してドラマチックな試合を作り上げているのだ。

アントニオ猪木がタイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンと繰り広げた熱闘と、ウルトラマンと怪獣の戦いに本質的な差異はない。

ジャイアント馬場は『週刊ファイト』の新米記者としてやってきた山本隆司(後に『週刊プロレス』編集長)に向かってこう言った。

「プロレスを追及してはいけない。君たちは社会部の記者ではないのだから。君たちが追及すれば俺たちは反論できない」

常識人である馬場は、プロレスが一般社会から隔絶されたところに存在するディズニーランドのようなファンタジーであることを充分に理解していた。

プロレスラーが「自分がやっているのは結末が決められたエンターテインメントです」と表明することは決してない。実況アナウンサーが目の前で行われている試合に疑問を持つことは許されず、スポーツ新聞や専門誌の記事がプロレスの本質に触れることもない。

プロレスファンの子供たちや若者たちは、愛するプロレスにわずかな疑念を抱きつつ、スリルと興奮を求めて会場に足を運ぶ。

レスラーとメディアとファンが三位一体となって作り出す自閉的共同体はしばしば“プロレス村”と称される。村の掟とは「プロレスの仕組みを口外してはならない」というものだ。実際に、新日本プロレスのレフェリーをつとめたミスター高橋は著書『流血の魔術 最強の演技』の中で、試合結果があらかじめ決められていることを暴露して村八分にされた。

ヒール(悪役)に散々痛めつけられたベビーフェイス(正義の味方)は大いなる苦しみを耐え忍んだ末に、最後の力を振り絞って雄々しく立ち上がり逆転勝利を収める。

そんなシンプルでわかりやすい構造を持つプロレスは、1970年代に入ると世界中で衰退していった。娯楽が増えたこともあるが、プロレスの真の姿が広く知られたことが大きい。

本場アメリカのプロレスファンは大きく減少し、全米各地に存在したプロレスプロモーションの経営は悪化し、イギリスやドイツなど欧州のプロモーションは気息奄々たる状態に陥った。

だが、日本におけるプロレスは、諸外国とはまったく異なる展開を見せた。アントニオ猪木がいたからである。

「プロレスは差別されている」

「プロレスを追及するな」とファンタジーに閉じこもるジャイアント馬場とは対照的に、アントニオ猪木は世間に向かって主張し続けた。

「プロレスはキング・オブ・スポーツであり、最強の格闘技であり、誰の挑戦でも受ける。

ジャイアント馬場がやっているのはショーかもしれないが、俺がやっているのは真剣勝負のプロレスだ。だが、人々には見る目がなく、その違いがわからない。プロレスは差別されている。俺は世間の偏見を打ち破ってみせる」

自分の無茶苦茶な論理を通すために、猪木は身体を張った。

プロレスを世間に認めさせるためにアントニオ猪木が行った最大のイベントが、1976年6月26日に日本武道館で行われたモハメド・アリとの異種格闘技戦である。

アメリカにおけるボクシングとプロレスの地位は天と地ほど異なる。特にボクシングヘビー級の世界王者はキング・オブ・キングス、王の中の王と称されるほどだ。

現役世界ヘビー級チャンピオンであるモハメド・アリを自分のリングに引き入れるために猪木が提示したファイトマネーはなんと610万ドル、約18億円に及ぶ。

モハメド・アリは1960年ローマオリンピックの金メダリストであり、プロに転向してからはKOラウンドを予告して実際に倒す魔術師として一躍有名になった。

史上最強のハードパンチャーとの呼び声も高かったソニー・リストンが保持する世界王座に挑戦した際には、“吸血鬼”フレッド・ブラッシーの毒舌を真似て散々罵った末に7ラウンドTKOで圧勝して新チャンピオンとなった。

「I must be the greatest !」と叫んだのはこの時だ。

天性のショーマンは、ベトナム戦争への徴兵を拒否して王座とボクシングライセンスを剥奪されても決して諦めないファイターでもあった。

アメリカ政府と4年以上戦い続け、再びボクシングライセンスを手にしたアリは、40戦無敗と無敵の世界王者ジョージ・フォアマンに挑戦する。

すでに32歳になっていたアリが25歳のチャンピオンをアフリカのザイール(現コンゴ民主共和国)でKOした試合は“キンシャサの奇跡”と呼ばれ、いまなお語り継がれている。

「予定通り、引き分けでした」

日本のプロレスラーと危険のないショーファイトを演じるつもりでやってきたモハメド・アリは、猪木サイドに事前の打ち合わせを拒否されて狼狽した。しかし、誇り高き男は結局、リアルファイトを戦う覚悟を固める。

長い協議の末に決まった特別ルールは、21世紀に生きる私たちの目から見ても妥当なものだった。

ひとことで言えば、ボクサーは立って殴れば勝ち。レスラーは組みついて倒し、グラウンドで関節技を極めれば勝ちというものだ。

世界中から取材に訪れた各国のスポーツ記者たちは頭を抱えた。これから行われる試合が謎に包まれていたからだ。

ボクシングのようなリアルファイトなのか、それともプロレスのような「結末の決められたエンターテインメント」なのか。そんな簡単なことさえわからない。アリも猪木も「ショーではない、リアルファイトだ」と繰り返すが、ふたりの発言を鵜呑みにすることはできない。

試合開始のゴングが鳴ると、記者も観客も唖然となった。

猪木は、時折スライディングしながらアリの足を蹴る以外、パンチの当たらない遠い距離をずっと保ち続けたからだ。

レスラーが立った状態のまま勝利することは不可能であり、必ずやグラウンド状態に持ち込まなくてはならない。そのためにはまず組みつかなくてはならないが、じつは猪木には足元に低くタックルする技術がなかった。かといって腰高のまま組みつきにいけば、アリの左ジャブの絶好の餌食となることは火を見るよりも明らかだった。

一方、寝転んで蹴ってくる相手にボクサーができることは、口汚く罵ることくらいだった。

「立ってこい! 卑怯者。お前は男じゃない! 女の子だ!」

アリが猪木の頭部に左ジャブを当てることができたのはわずか4回。それでも猪木の額は大きく腫れた。

3分15ラウンドは膠着状態のまま終わった。審判団の採点の結果、引き分けがコールされると、リングには次々と物が投げ入れられ、「サギだ! カネ返せ!」という罵声が飛んだ。

国内外の新聞は「世界に恥をさらした猪木」「アクション一切なし。影絵のような試合」などと酷評。NHK「ニュースセンター9時」の磯村尚徳キャスターは次のようにコメントした。

「この番組でこんなことを取り上げるのもどうかと思いますけど、予定通り、アリ─猪木戦は引き分けでした」

猪木がアリと行ったリアルファイトの異種格闘技戦の真の価値は、誰にも理解されなかったのである。

「世紀の凡戦」と批判された ©時事通信社

1976年の異常な4試合

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