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大学院入学とこれからの「大人の」学び 2

私は、2021年4月2日(金)に、藤女子大学の大学院に入学しました。
これからの大学院生活への決意を込め、入学式のことや今の心情、自分が考えた学びについてなどを綴りたいと思います。

前半の記事はこちら

この記事はその後半、大人になってから考えた学びについてや、大学院入学に至った心境の変化についてまとめます。

勉強をがんばってきた人たちと出会う

幼稚園教諭をしていた頃や、地元である北海道に住んでいた頃は、周りに勉強をがんばっているように見える人はあまり多くなかったように思います。
近しい人たちはみんな地元の大学を出て地元に就職し、自分たちのエリアの中だけで暮らしているように見えました。
そして、私たちは北海道という恵まれた土地にいて、大して競争もせず、頭の良し悪しに関係なく「普通の暮らし」を一生営んでいけるように、若い頃は思えていました。(時代はちょうどバブルの頃)

私ががんばっていなかっただけで、もちろん、勉強をがんばった人もいます。
道内ではあるけれど、国公立大学に進学した人もいます。また、道外や海外の大学に進学した人も、少数ですがいました。
ただ、私の感覚で「すごい違い」というのは感じていませんでした。

カルチャーショックを受けたのは、東京に出てからです。
有名な大学の出身者がたくさんいたり、私は聞いたことがない高校出身だけど、実はものすごいエリート校だったり…といったことがありました。
こんなにも「世界が違う」と感じることは、北海道にいた頃にはありませんでした。

そして、もっと差を感じるようになったのは本当に最近のことで、会社の同僚たちのお子さんのお受験の話や、道外出身社員自身のお受験の話を聞いた時です。
「みんなそんなに勉強するんだ!」と目から鱗でした。
特にIT企業に籍を置いているからかもしれませんが、周りの人の多くが「勉強ができないと基礎力が身に付かない」「基礎力がないと何をやってもダメ」と考えているように感じました。
スキルを磨くため、試験を受けて資格を取る人も多いと思います。
私はIT系の資格試験は、結局全く受けないまま今に至ります。

嫌いな勉強をがんばれないのは「ダメ」なのか

では、勉強が嫌いでがんばれなかった自分は「ダメ」だったか?
私はものすごく優秀ではないですが、そこそこスキルを発揮して、そこそこ頼られ、そこそこお給料ももらえるようになって、大人としてちゃんと自立できたと思います。
キャリアのスタートは幼稚園の先生でしたが、途中で全く違うITの世界への転職も果たし、偉くはならなかったけど、それなりの仕事ができていると思います。

嫌いな勉強をがんばれる力があったら、もしかしたらもっと上を目指せたのかもしれないけれど、それはわかりません。

私の趣味の管楽器(アルトサックス)の習得でも全く同じことが言えて、勉強が嫌いなのと同様、基礎練習が大嫌い。習ったこともほぼなく、ほとんど自己流。
中学の部活から始め、長年やってきて、今は地元の吹奏楽団で時々ソロをやらせてもらえる程度には吹けるようになりました。
基礎練をもっとしっかりやり、一流の先生に習っていたら、プロのミュージシャンになれていたのかな?

でも実は、嫌いな勉強や、基礎練習を避けつつ、私は実践を通じて基礎的な力もどこかのタイミングで学んでいたと思うのです。
興味のあることに対し、できるようになりたい一心で取り組む集中力や、興味があるから発揮できる記憶力、できるようになるための要素をどこからか見つけてきて取り入れる勘のようなものを駆使して、いつの間にか基礎となる色々なことも学んできたから、今の自分があると思います。

また、経験を通して副次的に得た学びも多くあり、特に高校の部活では今思うとプロジェクトマネジメントの要素が多くありました。
ビジネス本やプロジェクトマネジメントの解説書などを大人になってから読んだ時、場面として思い浮かんだのは高校の部活でのエピソードが多かったのです。

これまで、小学校のプログラミング教育支援に関わってきて、私は今の文科省が考える「プログラミング教育」の考え方は、自分の経験してきた学び方に近いと考えています。

要するに、学び方、習得の仕方にも色々なスタイルがあり、勉強をがんばることで基礎から積み上げて伸びる人も、興味の向くことに集中することで副次的に基礎を獲得して伸びる人もいるということを、私はここ数年で身をもって学んだと思っています。
どちらのスタイルがいい、悪いではなく、人によって向く学び方は違うのだということを、大人になってから実感しました。

大学院に入りたいと思った理由

私は2021年4月2日に大学院に入学しましたが、大学院を受験しようかどうしようか迷い出したのは、2020年10月頃です。
それまでは、自分が大学院に入れるとすら思っていませんでした。

きっかけは、企業側の人間として大学の授業に協力してきたことで、大学の先生とお付き合いがあり、勧められたことです。
短大卒であるため、大学院に行くという選択肢がないと思い込んでいた私に、可能性があることを教えていただきました。

私は、プログラミング教育(というか情報活用能力育成全般)に、大いなる課題を感じつつ、直接的にはほとんど何もできない自分に対し、不甲斐なさを感じていました。
幼児教育の世界と、ITの世界を両方知る珍しいタイプの自分だからこそできることがありそうなのに、小学校の授業については免許もないし、ほとんど無知であることが引っかかっていました。

会社の仕事的には、別に教育の課題を解決する必要などないのですが、一度足を踏み入れたこの分野の闇深さ、特に北海道における課題の深刻さに対し、何かできることをしたいという強い気持ちがありました。

今までは、興味の向くまま自己流で突き進んできても、周りの力を借りることで何とかなっていましたが、今回は「基礎力が足りないから基礎力を身に付けたい」と強く思ったのです。
ここで初めて、興味のあることができるようになるために、もっと専門的な知識を勉強し、じっくり研究したいと考えるようになりました。

いつでも学べるという意識

話は昔のことに戻りますが、勉強の嫌いな私に親が「勉強したいと思ったら自分でお金稼いで勉強しなさい」と言ったことがあります。
うちは裕福ではないから最低限の学費(家から通える範囲の私立短大か国公立大の学費)しか出せない、だからそれ以上の学びが必要だったら、自分でお金を稼いで自分で学費を出して行きなさいということでした。

奨学金(将来の借金)をもらって、自分で学費を工面する人もたくさんいるということは、その当時実は知らなかったのですが、親は事業で失敗した経験から子どもに借金をさせたくないと思っていたので、奨学金という選択肢はありませんでした。
勉強したいなら「お金を自分で稼いでから」ということです。

当時は「自分でお金払ってまで勉強したいと思うわけないじゃん!」と思っていましたが、親のその言葉(結局のところ、本当に勉強をしたいのならいつからでもできるということ)は心のどこかに刺さり、大人になってから効き目が現れたのです。
このような導きに、今は感謝しています。

学び続ける人生と向き合う

人は結局学び続けるのです。
学び続ける人生を送ることを考えた時、若い時からコツコツ積み上げ、そのまま同じペースでずっとがんばれる人もいるかもしれませんが、私のように波があるタイプの人もいるでしょう。

自分の「学び続ける」人生と向き合った時、どんなペース配分でやっていくのが良いのか、自分でしっかり納得して決められるのが幸せなんじゃないかと最近思うようになりました。

これからの大学院生活で、この「学び」といろいろな形でじっくり付き合って行きたいと思います。


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