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『インセプション』より|登場人物の名前の由来とトーテムの特徴

⚠この記事には映画『インセプション』に関するネタバレが含まれます。

夢にアイディアを植え付ける。そんな大胆な発想を映像化した映画『インセプション』は、公開当時「スタンリー・キューブリックが監督した『007』」と称された。2010年7月16日にアメリカで、同年7月23日に日本で公開された本作は、夢に侵入する産業スパイを描いたSFアクション大作だ。

ノーラン監督が志す実写主義は本作に限らずあらゆる監督作で確認することができる。「『インターステラー』で実物の宇宙ロケットにカメラを取り付けて成層圏まで飛ばした人物が本作の監督」と言えば、そのこだわりや凄まじさ、映画撮影に対する職人のような熱意は想像に容易いだろう。

本記事では『インセプション』の登場人物の名前の由来と、各々が所持するトーテムの特徴について言及する。

|コブ(Dominick Cobb)

本作の主人公であるコブの本名はドミニク・コブ。劇中では「ドム」や「コブ」と呼ばれている。モルが亡くなったあとに逃亡する際、一瞬映る飛行機のチケットに「Dominick Cobb」の記載があることから、偽名を使っていないのであればコブの本名はDominick Cobb であると推測される。

Cobbという単語はサンスクリット語で「夢」を意味している。ノーラン監督は作品名や登場人物にラテン語で意味を持たせることが多いが、Dominickはラテン語で「神に属するもの」を指す。劇中でのコブの目的は子どもたちがいる家に帰ることだが、ラテン語の「Domus」には「家」という意味もあり、彼の名前から本作のストーリーへの繋がりが垣間見える。
またアメリカの著名な建築家にヘンリー・コブという人物がおり、虚無でコブが創り上げた高層ビルによく似た近代建築を手掛けている。

コブのトーテムは駒(スピン)だ。夢の中でモルを生かし続け、罪悪感を抱えながら生きているコブの不安定な精神を考えると、彼のトーテムは自身の心の象徴であるとも考えられる。ただ彼のトーテムは元々はモルのものであり、持ち主であるモル以外のコブが触れた時点でトーテムとしての効力はなくなっている可能性もあるため、実際にトーテムとしての役割が果たせていたのかは不明である。

余談だが、Cobbという人物がノーラン作品に登場したのは実は『インセプション』が二作品目である。初めてCobbというキャラクターが登場したのはノーラン監督の初長編監督作『フォロウィング』で、この作品の主人公の名前もCobbである。彼らの共通項として、両者共に盗みを家業にしている点が挙げられる。

|モル(Mal Cobb)

コブの妻であるモルは初登場時にはすでに死去しており、全編を通してコブの潜在意識の投影、あるいは回想でのみ登場する。
モルという名前はギリシャ神話に登場する「夢を司る神」モルぺウス(Morpheus)に由来していると考えられる。モルペウスは「形作るもの」という意味を持ち、人が見る夢や空想の中にイメージを送り、夢を具現化したり、夢に宿るものに形を与える役目を持つ。
またmalediction(悪口)という言葉などからも分かるように、malは「悪い」という意味の接頭語としても使われる。英語のmalはラテン語のmal(悪い)に由来しており、フランス語でmalheurは「不幸な」という意味を持つ。

ちなみにラテン語のmalの語源であるmalumには「悪い」という意味の他に「りんご」という意味もある。りんごはキリスト教において禁断の果実である。その点を踏まえて考えると、現実ではすでに亡くなっているモルを夢の中で生かし続け、彼女と接触することが禁忌に近い行為であるとするなら、彼女の名前にもより説得力とリアリティが増すのではないか。

モルが持つトーテムは、後にコブのトーテムとなる駒だ。彼女は自分が夢の中にいるのか現実世界にいるのかを判断するための重要アイテムであるトーテムを隠してしまう。コブの「現実世界に帰ろう」という提案を拒んで現実を忘れ去るためだ。夢の中では自身の生家に置いてある金庫内に、現実世界ではコブと記念日を過ごしたホテルの部屋にトーテムを捨て去ってしまった。こうして彼女の遺品となったトーテムをコブは子供たちに再会するまで使い続けているのだ。

なおトーテムは他人の夢の中にいるか否かを確認するためのアイテムだが、この考案者はモルである。夢に侵入する産業スパイたちの間でどれほどトーテムというアイテムが浸透しているかは定かではないが、夢と現実を区別するための具体策として過去のモルの聡明さが窺えるエピソードとなっている。

コブとモルが使っていたトーテム

|アリアドネ(Ariadne)

アリアドネという名前を聞いて最初に思い浮かべるのは、やはりギリシア神話のアリアドネだろうか。神話の中のアリアドネは、ミノタウロスという牛頭人身の怪物に(ミノタウロスを倒す目的の元)自ら生贄として志願したテセウスという人物を迷宮から脱出させたキャラクターであり、この逸話をミノタウロス伝説と呼ぶ。
映画での彼女は咄嗟の場面で機転を利かせてピンチを切り抜けたり、コブが虚無でモルに刺された際にアドリブでコブを助けるなど、重要な局面でメンバーをサポートする重要な位置付けを担っている。このように神話でテセウスを助けたアリアドネのように、本編のアリアドネもコブを助けるという類似点がある。

本題からは脱線するが、ギリシャのパフォス考古学公園には古代ローマに造られたミノタウロス伝説をモチーフにしたモザイク画が存在する。「テセウスの館」と命名された建物にあるモザイク画にはミノタウロスと闘うテセウスが描かれているのだが、この迷路の形状が『インセプション』のアリアドネが描いた円形の迷路と酷似している。

ミノタウロス伝説のモザイク画
建築士として採用される際にアリアドネが描いた迷路

彼女がトーテムとして選んだのはビショップ(チェスの駒の一種)だ。ビショップは駒の頭の部分がミトラ(司教冠)の形をしており、キリスト教における高位聖職者を意味する。ギリシア神話とキリスト教は歴史的にも深い関連性があり、ギリシア神話に登場するキャラクターと同じ名前の人物が聖職者の象徴である駒をトーテムに使っているのは大変興味深い。ビショップとよく似ている駒にポーンが挙げられるが、見分け方としては先述のミトラの有無、また丸い部分の切り込みの有無からどちらなのか判別することができる。トーテムの試作段階で駒を倒している描写があるが、使用法に関しては不明である。駒を倒した反動、倒れたときの状態、倒れるか否か等、様々な使用法が考えられる。

|アーサー(Arthur)

後述するが、アーサーという名前はユスフの名前の由来と関連があると思われる。ファンの間でも諸説あるが、中でもアーサー王伝説のアーサーに由来しているのではないかという説は有力視されており、それを裏付ける理由も考えられる。アーサー王が最期を迎えた場所はアヴァロンという島なのだが、この地は(ユスフの名前の由来として考えられる)キリスト教の「ヨセフ」いう人物が降り立った場所としても知られている。つまりアーサー王とヨセフにはアヴァロンという共通点があるのだ。
更にアーサーという名前はユスフだけではなくアリアドネとも関連がある。上記のミノタウロス伝説はクレタ島にあるクノッソス宮殿が舞台だが、そのクノッソス遺跡を発掘した人物がイギリスの考古学者アーサー・ジョン・エヴァンズなのだ。

クノッソス遺跡跡

ポイントマン、つまり交渉人として頭脳派(実際には非常にアクティブな活躍も多い)の立ち位置にいるアーサーのトーテムは、赤く透き通ったイカサマサイコロだ。
元来イカサマサイコロは賭博などで使用される特殊なサイコロで、出したい目の反対側に重みのある材質を入れたり、サイコロの高さを微妙に調節することによって、何度振っても同じ目が出る(または同じ目が出やすくなる)細工が施されたサイコロである。使用法に関して劇中では明言されていないため、観客の想像に委ねられる。

サイコロの材質によっては、オーブンで一定時間加熱することで重心を偏らせ、イカサマサイコロを作ることが可能

|ユスフ(Yusuf)

モンバサで調合師として夢に入るための薬品を扱っているユスフ。先ほどアーサーの名前の由来について言及したとおり、ユスフという名前はキリスト教のヨセフ、もしくはクルアーンのヨセフに由来すると思われる。
聖書に登場するヨセフは4人いるが、彼の名前の由来となったであろう人物は旧約聖書に出てくるヤコブの子ヨセフだ。またイスラム教の聖典クルアーンにおけるヨセフの英語表記はYusufであり、劇中のユスフと同じ表記である。クルアーンでのユスフは夢解釈の才能、つまり予知夢を見ることができる預言者として知られおり、旧約聖書のヨセフもまた同様に予知夢を見たとされる。

名前の由来とは話が逸れるが、ユスフの初登場時、茶トラの猫が背後にいたことをご存知だろうか。この猫はユスフの後ろに置いてある缶に興味を示す姿が映っているだけで、物語上で特に言及されることはない。だが前述の4人のヨセフのうち「マリアの夫でイエスの義父であるヨセフ」と猫には近からずも関連性がある。ヨセフの妻であるマリアが描かれた複数の絵画に猫が描かれているのだ。フェデリコ・バロッチ、ロレンツォ・ロット、ピーター・ポール・ルーベンスらはそれぞれ「受胎告知』を描き、同じフレーム内に猫を登場させている。これは主に聖母マリア崇拝の影響によるものだが、興味がある方は宗教画と猫の関連性について調べてみるのも面白いだろう。

ユスフは劇中でトーテムを持っている描写がない。これは本来であればユスフが夢の中に入る手助け(薬の調合)をする立場だったことに起因しているが、作戦の当日までに用意していた可能性も無視できない。

|イームス(Eames)

イームスは夢の中で他人になりすますことを得意とする偽造師だ。
Eamesという名前は「夢」を意味するdreamsに語感が似ている。またイームズチェアで有名な建築家兼デザイナーのチャールズ・イームズ(Charles Eames)を思い出す方もいるだろう。彼はプライウッドと呼ばれる木目が美しい高級ランクの天然合板やプラスチック、金属など様々な建材を巧みに使用した先見性のあるデザイナーとして知られており、ややこじつけではあるが、あらゆる人物になりきるイームスと類似性がまったくの皆無であるとは言えない。

イームスのトーテムは誤表記が印字されたカジノの偽造コインだ。劇中でもコブが指摘していたようにMOMBASAをMOMBASSAとスペルミスしている。経験豊富で判断力や瞬発力にも優れ、頭も切れる優秀な人材だが、一文字のスペルミスでイームスという人物像を表現する。そういった意味合いも込められていると考えるとまた面白い。
彼のトーテムの使い方に関する言及はないので、観客の想像力によって自由に言及できる余地がある。

さて、ここで登場人物の名前を並べてみると面白いトリックに気づく。

6人の名前の頭文字を繋げるとDREAMSに

今回紹介しなかったロバートやサイトーも含め、登場人物の頭文字を繋げるとDREAMS(夢)になるのだ。
この手法は『プレステージ』の主人公アルフレッド・ボーデン(Alfred Borden)とロバート・アンジャー(Robert Angier)両者の名前の頭文字を繋げると手品師お決まりの台詞「abracadabra(アブラカタブラ)」の一部になるという前例にも見られ、ノーラン監督が積極的に言葉遊びを取り入れていることが分かる。

『インセプション』は第83回アカデミー賞で作品賞、脚本賞、撮影賞、視覚効果賞、美術賞、作曲賞、音響編集賞、録音賞の計8部門にノミネートされ、撮影賞、視覚効果賞、音響編集賞、録音賞の計4部門を受賞した見応えのある作品だ。
映画ファンであり熱心な読書家でもあるノーラン監督が自ら脚本し、多くのメディアや批評家たちに絶賛された本作を、公開から13年経った今改めて観るのも良いかもしれない。