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ロバート・オッペンハイマーの生涯と関連人物のまとめ

2023年7月、クリストファー・ノーラン監督による待望の最新作『Oppenheimer』(原題)がアメリカで公開される。
主演は『インセプション』や『ダンケルク』など過去にも同監督作品に数多く出演したキリアン・マーフィ、原作は『オッペンハイマー「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』(カイ・バード/マーティン・シャーウィン著)。核兵器開発の主要人物であるロバート・オッペンハイマーと、彼が携わったマンハッタン計画が主題となる。

│ ロバート・オッペンハイマーとは?

ロバート・オッペンハイマーは、第二次世界大戦時の核兵器開発プロジェクト「マンハッタン計画」を主導した理論物理学者である。カリフォルニア大学で教鞭を執り、ボルン–オッペンハイマー近似やトルマン・オッペンハイマー・ヴォルコフ限界を提唱するなど、後年の物理学界に大きな功績を残した。
一時は核兵器の研究開発に熱心に取り組んだが、原爆投下後の惨状を目の当たりにして自らが犯した過ちの大きさに気づき、終戦後は核兵器廃止を訴える運動を積極的に行った。

この記事では、オッペンハイマーがどのような人物だったのか、またどのような生涯を送ったのか、彼と関わりを持った人物や歴史年表を混じえて簡単に紹介する。

│ オッペンハイマー年表

1904年4月22日|0歳
オッペンハイマー誕生。青年実業家の父ジュリアスと、画家の母エラの元に生まれる。

幼少期
裕福な家庭で育ち、祖父ベンから鉱物標本をもらったことで鉱物に興味を持つ。勉強や読書に励み、12歳の頃にはニューヨーク鉱物学同好会の正会員として研究発表を行った。

1911年〜1921年|7歳〜17歳
私立倫理文化学園の第2学年に入学。その後、同校の高校部を卒業。

1922年|18歳
ハーバード大学の化学科に入学。

1925年| 21歳
ハーバード大学を離れ、イギリスのケンブリッジ大学に留学。

1927年|23歳
ゲッチンゲン大学のマックス・ボルン教授に研究を評価され、ゲッチンゲン大学に移籍。その後、博士号を取得。当時は「シュレディンガーの波動力学」が発表されたばかりで、ゲッチンゲン大学は量子物理学の研究に力を入れていた。

1927年〜1928年|23〜24歳
秋から年末にかけてハーバード大学で、また翌年の前半にはカリフォルニア工科大学でポストドクター(博士研究員)として研究を進める。

1929年|25歳
バークレーのカリフォルニア州立大学で助教授を務める。

1936年|32歳
助教授から教授に昇進。この頃、友人の紹介でジーン・タトロックと出会い、交際に至る。

1938年|34歳
ブラックホールや中性子星の研究を行う。

1939年初め|35歳
ジーン・タトロックと破局。

1939年8月|35歳
キティ(キャサリン)と出会う。

1939年3月|35歳
第二次世界大戦が勃発。

1940年|36歳
キティが前夫と離婚、オッペンハイマーと再婚。

1942年|38歳
アメリカ、イギリス、カナダが主導となり、核兵器開発プロジェクト「マンハッタン計画」が始動。科学者や技術者たちが原爆開発のためにニューメキシコのロスアラモスに総動員された。
オッペンハイマーはロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、化学部門のリーダーを務める。

1945年7月16日|41歳
アメリカで人類史上初の核実験「トリニティ実験」が行われる。

1945年8月6日|41歳
日本の広島に原子爆弾(通称リトルボーイ)が投下される。

1945年8月9日|41歳
広島に次ぎ、長崎に原子爆弾(通称ファットマン)が投下される。
広島と長崎の惨状を目の当たりにしたオッペンハイマーは激しい後悔と自責の念に駆られ、核兵器の開発に懐疑的な姿勢を示すようになる。

1945年9月2日|41歳
第二次世界大戦が終戦。冷戦が始まる。

1947年夏|43歳
オッペンハイマー一家(ロバート、キティ、息子ピーター6歳、娘トウニィ3歳)は、バークレーからプリンストンに移住。オッペンハイマーはプリンストン高等学術研究所の3代目所長となる。直後、日本の物理学者である湯川秀樹を客員教授として研究所に招待、共に物理学の研究を進める。
その後、原子力委員会(AEC)のアドバイザーとなり、核兵器の国際的な管理を呼びかける。水爆をはじめとする核開発に反対の意を示したため、マンハッタン計画で研究を共にしたエドワード・テラー(「水爆の父」と呼ばれる人物)と対立するようになる。

1954年|50歳
「ロバート・オッペンハイマーはソ連のスパイである」との容疑をかけられ、オッペンハイマー聴聞会が開かれる。この聴聞会でオッペンハイマーは証拠に乏しい憶測の容疑をかけられ、スパイに仕立て上げられた。
原子力委員会(AEC)から事情を聞いたアイゼンハワー大統領は、大統領命令としてオッペンハイマーを一切の国家機密から隔離、政府公職追放が決定。これは当時ジョセフ・マッカーサー上院議員による赤狩りがアイゼンハワー政府を脅かしていたことが原因である。(つまり、赤狩りの追求によって政府が苦境に立つのを恐れ、慌ててオッペンハイマーを切り捨てた形である。)
以後、オッペンハイマーは国家機密を漏洩する可能性を持つ危険人物と断定され、FBIによる尾行や盗聴など、晩年まで厳しい管理下に置かれる。

1961年|57歳
ジョン・F・ケネディが大統領に就任。マクジョージ・バンディ、ディーン・ラスクをはじめとするオッペンハイマー支持者たちがケネディの側近となり、オッペンハイマーの公的名誉を回復させようとする動きが出始める。

1963年|59歳
原子力委員会(AEC)が「科学者に与える最高の栄誉」として、オッペンハイマーにフェルミ賞の授与を決定する。
フェルミ賞は1954年に原子力委員会(AEC)によって始められ、主にエネルギーの開発、使用、生産において業績を上げた人物に贈られる賞である。

1963年11月|59歳
ジョン・F・ケネディ大統領が暗殺される。このとき政府内でオッペンハイマーにフェルミ賞を授与することに反対の声が上がったが、ケネディの後継者であるリンドン・ジョンソン大統領はこの反対を押し切り、予定通りオッペンハイマーをホワイトハウスに招待。表彰状と金メダル、5万ドルの小切手をオッペンハイマーに手渡した。
このときオッペンハイマーはしばし無言で立っていたが「大統領閣下、あなたがこの賞を与えるに当たっては、いささかの慈悲心といささかの勇気を要したことであったろうと私は考えます。このことは、我々の未来全体にとって良き前兆のように思われます」と感謝の意を述べた。
なお、この式典には前回の受賞者でオッペンハイマーの公職追放にも加担した水爆支持者のエドワード・テラーも出席しており、オッペンハイマーに祝言を述べて彼に握手を求め、オッペンハイマーもこれに応じている。

1964年春|60歳
ロスアラモス国立研究所からの招待を受け、物理学者ニールス・ボーアの追悼講演を行う。

1965年|61歳
喉頭癌が見つかる。

1966年はじめ|62歳
癌による死が近いことがわかり、高等学術研究所に辞表を提出、所長を辞任。アインシュタインに次いで名誉教授となる。

1967年2月18日|62歳
研究所の会議に出席し、帰宅した後に死去。
25日に行われた告別式には、当時マンハッタン計画を指揮したレズリー・グローヴスも出席した。
告別式ではオッペンハイマーが若い頃から愛していたベートーヴェンの『弦楽四重奏曲嬰ハ短調』が演奏された。

2022年12月16日
米エネルギー省のグランホルム長官が、オッペンハイマーを公職から追放した54年の処分は「偏見に基づく不公正な手続きだった」として取り消したと発表。オッペンハイマーにスパイ容疑の罪を着せて責任逃れをしたことを公的に謝罪した。

│ オッペンハイマーと関わりを持った人物

■ジーン・タトロック(フローレンス・ピュー)
アメリカ合衆国共産党(CPUSA)で左翼運動に参加していた。心理学の博士課程の学生時代にオッペンハイマーと知り合い、仲を深める。精神的にかなり不安定で、躁状態と鬱状態、失踪などを繰り返してオッペンハイマーを悩ませていた。

■キティ・オッペンハイマー(エミリー・ブラント)
生物学者であり植物学者。オッペンハイマーと出会った当時キティは既婚者だったが、オッペンハイマーに一目惚れし、1940年に夫と離婚。同年11月にオッペンハイマーと再婚した。共産党員。

■ルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr.)
アメリカ原子力委員会(AEC)の委員長。水爆支持者。オッペンハイマーがプリンストンの高等学術研究所の3代目所長になった頃、すでに彼を好ましく思っていなかった。オッペンハイマーの公職追放は、ストローズとテラーの個人的な敵意による画策だったと考えられている。

■エドワード・テラー(ベニー・サフディ)
マンハッタン計画に参加し「水爆の父」と呼ばれた理論物理学者。終戦後は核開発に反対の意を示したオッペンハイマーと意見が対立し、水爆支持者のストローズと共にオッペンハイマーの失脚を謀る。

■レズリー・グローヴス(マット・デイモン)
マンハッタン計画の最高指揮官。オッペンハイマーをロスアラモス国立研究所の所長に推薦した人物。非情さを持つ野心家だが、オッペンハイマーに絶大な信頼を置いており、晩年はオッペンハイマーの告別式にも出席した。

■エンリコ・フェルミ(ダニー・デフェラーリ)
イタリアの物理学者。オッペンハイマーと同じくマンハッタン計画に参加していた。フェルミ分布関数やベータ崩壊理論などで大きな業績を残し、1938年にノーベル物理学賞を受賞。後年オッペンハイマーが受賞したフェルミ賞の元となった人物。

■アーネスト・ローレンス(ジョシュ・ハートネット)
オッペンハイマーが助教授を務めていたバークレー時代の同僚で、物理学者。マンハッタン計画より前、全米科学アカデミー(NAS)に原爆開発の委員として選ばれ、オッペンハイマーに物理学的な助言を求めていたことから、オッペンハイマーがマンハッタン計画に携わる一因となった人物であるとされる。その後、マンハッタン計画に参加。ストローズやテラーと同様、水爆支持者。1939年にノーベル物理学賞を受賞。

■ロバート・サーバー(マイケル・アンガラノ)
オッペンハイマーがバークレーで助教授を務めていた頃の生徒で、その後も生涯の親友となる人物。物静かな性格で勤勉。戦後はコロンビア大学の教授として物理学に貢献した。

■ケネス・ベインブリッジ(ジョシュ・ペック)
トリニティ実験の責任者。実験のあと「Now we are all sons of bitches.(これで俺たちはみんなクソ野郎だ)」と言ったのは彼である。


歴史上、科学が発展すると必ずどこかで倫理観の欠如が生じる。科学者が大きな過ちを犯したのはオッペンハイマーだけではない。アヘンの流行、ロボトミー手術、優生学、化学肥料の開発。多くの人々の命を奪ったこれらの愚行には、数多の科学者や技術者、政治家たちが関わっている。
日本は世界で唯一の被爆国である。他国とは原爆に対する捉え方、価値観が異なる部分は大いにあるだろう。オッペンハイマーは日本の未来を大きく変えてしまった人物なのは間違いない。しかし、果たしてオッペンハイマー「だけ」が原爆の父なのか。惨劇を招いたきっかけと責任は一体誰に(もしくは何に、どこに)あるのか。
我々ができるのは、先の悲劇を繰り返さないために何をすべきか真摯な議論を地道に繰り返し、倫理や道徳観を踏み外さないよう世界全体で危機回避していくことに他ならない。『Oppenheimer』が歴史や文化や未来について、また科学の脅威に対して今後どう対処し、歩み寄り、共生できるのか、改めて一考する良い機会となることを願っている。