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【哀れなるものたち】滑稽なわたしたちの冒険に祝杯を

哀れなるものたち』をついさっき観てきた。消化しがいがあり、言葉にするのをひよってしまう予感…その前に、走り書き!

そもそも成長譚といえば男や少年たちに与えられるもので、女に与えられてきた夢のほとんどは「愛する人と結ばれ幸せに暮らしましたとさ、めでたし(以下略」。

せいぜい、少女(=清純な存在)から成熟した女性(=良妻賢母)への道のりが描かれてばかり。

そんな「愛されハッピリーエバーアフター」に没頭できない私のような人間は、まさに世間一般から見れば"哀れなるもの"の1人でしょう。

だけど、本当に哀れなのは?滑稽なのは誰?そもそも滑稽で何がわるい?

この世界の美しさも醜さも味わい尽くし養分にして生きてみたい。人がそれを哀れというなら、哀れ上等でこの魂をやりきりたいんだ!

ちょうどそんなムードのさなかにある今、なお響いてくる映画でした。

以下、さらなる書き殴り…( •̀ᴗ•́ )و ̑̑

より正しい選択を、よりよい暮らしを。近代社会や資本主義社会の原動力ともいえる『進歩』というキーワードは、機能不全に陥って久しい。

文明/未開、規範的/不道徳、科学/魔術、中心/周縁、人間(マン、異性愛成人男性)/それ以外…といった二項対立。

それら歴史的で階層的なものさしにおける「よりよさの追求」なんて、もはや崩れ去った神話のようにしか思えない。

しかしベラの唇からこぼれる「進歩」というキーワードは燦然と輝きを放っていた。

だって、権力や常識が与えてくるゴールに向かっての「進歩」なんかじゃないんだもん。

悦びに突き動かされて与えられる光明。獲得していく豊かな感情と価値観。語り学びそして自ら実験することで得られる知恵。

それを希求する自由意志とともに、ベラは彼女自身の感じる「よい世界」を創り出そうと、不敵に闊歩し続ける。

女は常に、聖女か魔女かに二分されてきた。「ヘビにそそのかされたイブ」的な物語の上に構築されてきたさまざまな宗教、道徳規範、資本主義。

快楽の源泉として蔑まれ、あの世へつながる不気味でケガレた存在であると押し込められ、

あるいは妻や母というコントロール可能、所有可能な服従存在でいれば「愛される幸せが手に入るんだぞ」と納得させられてきた。

そんな暗い歴史をとうとうと語り、裁きにかける…というリベンジストーリーではないところが、またよかった!


所有と情欲と暴力しか知らない哀れなるものたちを尻目に、勝手に世界へとはばたき続けよう。書を開き知を愛し、学び続けよう。気持ちいいことや悦ばしいことを盛大に楽しんでやろう。

誰もが等しくグラスを手にして、わたしたちは乾杯するんだ。

p.s.
アテネで階段の下の世界を知る以前のシーン(とくにリスボンでの冒険)、エマ・ストーンの立ち姿が印象的だった。完全にハートチャクラ主導の姿勢。

まだ父性的な存在の庇護の中でしか生きたことのないベラ。この世の不条理や悲しみと出会う前、生も死も等しい未分別の世界=子どもの世界を演じきるの、うますぎでは!

(画像はすべて©︎searchlightpicturesjapan:ホームページまたは予告動画からお借りしています)

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