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心の貧しい私

就職氷河期にぶち当たった私は年収が低い。
もはやそれも完全に言い訳なのだが、キャリアアップの転職をしても、そもそもが低いのだ。年末のアメ横のように買い叩かれる。
なお、比較対象は平均値とか中央値とかではなく、私の周囲だ。

貧乏なわけではないはずである。
でも私は周りと自分を比べてしまうし、どうしてもうらやましく感じることがある。
だって、売り手市場世代とそんなに変わらないのだ。
手当てがないぶんむしろ低いのではないか?
仕事は多いのに?

ほら、愚痴りだしたら止まらない。
もう心が貧しい。

そうなると自己嫌悪にはまり負のループ。
くるくる目が回るくらいの渦にのまれる。
もう寝られない。
比較して得られる優越感も劣等感も結局は自己嫌悪に繋がるだけだ。

私はお金が好きだし心が貧しいので
「家族といる時間があればそれがゆたかさ」
と言えるほど良い人ではない。
全員に秀でた才能があるわけでもないと思う。
自分の好きなことで周囲に認められる人なんて極々一部だ。
そんなことわかってる。

でも、周囲に認められなくても、自分が認めることはできるはず。
お休みの日の朝にひとりの部屋の窓を開けてリラックスして。
これは奇跡的に恵まれていることだ。
私は知っている。
パートナーがいなくても友達が少なくても。
自分の心の貧しさを自覚してそれを許そうとする。
それが今の私のゆたかさだと思う。

プロテスタント系の幼稚園に通っていた私は、今でも呪文のように唱えていたお祈りの言葉を覚えている。
てんに まします われらの ちちよ
で始まるアレである。
真面目に信仰していなかった私にはうろ覚えだが、「さいわいシリーズ」と密かに心の中で呼んでいた聖書の一節がある。
確かマタイか誰かの福音書。

心の貧しい人々は幸いである
天の国はその人たちのものである

のような、不幸と思える人々が実は幸いですよ、といくつかのパターンがテンポよく語られている。
今迫害を受けていたり恵まれない環境にいる人々も、信仰することで神は見捨てないし救われる的な感じ。
私は信者ではないので違っていたらごめんなさい。
詳しい宗教的なことはわからないし、それが全てではないと思う。

ただ、とにかく、心の貧しい人もゆたかに幸せになれる権利も可能性もあるってこと。
そう自分に言い聞かせている。
(もちろん信仰は関係なく!)

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