消費活動にリボンを結ぶ

オタクって気持ち悪いんだよな。
これは戒めである。二十数年何かしらのオタクをしていると、周りも自然と様々な界隈のオタクがおり、一般的な感覚がなくなる。
(ここでいう一般的な感覚とは特段好きなコンテンツがない人たちの感覚とする)

確かにオタク(推し活)は楽しい。

アイドルもバンドもアニメも、それぞれのステージで輝く人たちは現実を忘れさせてくれるし、また明日から頑張ろうと活力をくれる。彼らの歴史を知ればもっと好きになるし、知らなかったジャンルに触れられてさらに自分の世界が広がっていく。オタクの解釈を読めば、こういう見方があったのか!とワクワクするし、逆に自分の解釈を面白がってもらえることもある。あの時の◯◯はこうだった…!と語り合うのも楽しい。

好きなことを通して、たくさんの楽しい!と愛が増幅して循環していく。一見すると推し活って素晴らしい!と思うかもしれない。

しかしその感覚で非オタクに話すと、えらいことになる。非オタからすればリリースのたびCDを積むのも、ツアー全通するのも、推しが出るまでガチャを回すのも、そこまでの時間とお金を費やすことが理解できないのだ。オタクが推しのいない人生なんて信じられないのと同じぐらいに。(私も買った写真を見てなぜ喋ったこともない人の写真をここまで集めているんだ…?とたまに正気に戻ってしまう)
いい年なんだから現実見なよ〜と言われても、うるせえ!これが俺の現実じゃ!!!!!別に誰に強制されてるわけでもないし、自分の中でお金使ってるんやからそれに口出しすんな!と言いたくなる。

要するにオタクとは生きるエネルギーを、極端に推しに注ぐ人種なのではないだろうか。好き、推すというエネルギーは、応援であり、承認欲求であり、恋愛であり、母性など様々な欲求が入り乱れている。非オタが自分のプライベートを充実させるように、オタクは自分よりも推しにエネルギーを注ぐことが生き甲斐なのだ。ある種のガチ恋である。

しかしもってオタクと非オタは一生分かり合えないので、推しのことは話さないのがお互い幸せである。
あとその非オタの感覚は頭のどこか隅に置いておいた方がいいな、とたまに冷静になる。楽しんでお金使ってるからいいんだけど、あくまでも推し活は趣味である。生活の付属物、もしくはデザートぐらいにしておかないと、何か起きた際支えるものがなくて自分が辛くなってしまう。(脱退とか熱愛とか結婚とか、、、)

自分にとって天変地異レベルのことが起こっても、生活は続いてしまう。生きるためには働かなければいけない。だって推しの写真は精神を助けてくれても、ご飯にはならないのだから。(フリマアプリで売ればお金になって回り回ってご飯になるかもしれないけど)

からといって彼らに「自分の人生を生きてください」と言い切られるのも、それはそれで切なくなるのがオタクの面倒くせえところである。自分の人生という現実だけで完結してたら、そもそもオタクなんかしてねえよ。キラキラした輝き、夢を俺らに見させてくれよ!とゾンビのようにしがみついてしまう。

さらに面倒くさいことにその輝きを主食にしているオタクは、ステージの上の彼らの予期せぬプライベートが見えた時、ショックを受けてしまうのだ。熱愛が出たらよく言われるミッキーの頭論である。でも彼らからすればステージの上が仕事で、そこで精一杯輝いているならいいんじゃない?と思わないこともない。まあ100000000%綺麗事だけど。恋人いるかもしれないな〜と空想するのと報道されるのとでは天と地の差がある。よって全ては報道するメディアが悪い。

オタクにできるのははなるべく好きなものを増やしておく、自分が欲しいものには惜しみなく使えるだけのお金を稼ぐ、いろんな角度から物事を見る癖をつけることである。みんな強く楽しく生きていきましょうね。楽しくなかったら一回タンスの中に片付けたって、誰も文句は言わないから大丈夫。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?