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学ぶことと、生き急ぐ私の人生。

なんでこうも、学校に行かなくなると学びたくなるのでしょうか。

私の学問への意欲関心は大学生のころからすくすく育ち、最高潮を迎える。
だがしかし。私は昨年度卒業した。無事。よってつくられたハコでの確実な
学問の機会は約束されないのである。困った。
大学では教員免許を取得したが、学びたいことを全て網羅するのは無理だった。
単位には限界はあるし、潜りに行こうとしても大抵他の科目と被る。
かと言って、その科目をおそろかにすれば次の学年にツケが回ってくる。
大学は学び放題なんだ!!と勝手に思っていたが、選択の余地が有り余るのみで、
私は使いこなせなかった。学費、元取れたかな。

話したいのは、大学の仕組みへの不満ではない。
私が話したいのは、「学びたいが、時間は限られている」ということである。
例えば、「哲学・西洋美術・フランス語・教育学(特に発達について)・心理」
私が関心のあるのは上記が主である。
さあ、これを今から学べるだけ学ぼう!!と思う。
しかし、学問には「余裕のある時間と心、そしてお金」が必要である。
だから、大学はあんなに「こんな勉強がしたい!!」と純に思えたのだ。
だって、「余裕のある時間と心」あったもん。お金なくとも、大学図書館に行けば
大抵の主要図書は借りれるし、少しお金を出せば本も論文も取り寄せもできる。
しかし、大人になれば。ハコから出ればそんな補助輪はない。全て自分持ち。
そこが学問の悩ましい部分である。と私は勝手に思う。

じゃあ、大人になれば勉強できないのか。違う。
むしろ、大人になる方が学問に向き合いたいと言う思いは増す。
「しろ」と言われればしたくないし、言われないとしたくなる。
そういうものなのだ。学問ってそう言うもの。
縛られず、自分で手を伸ばした時が学問の「適した時期」だと思う。
それが早く来る人もいれば、大人になってくる人もいる。
しかし時間は平等だし、要領は個々人によるのでムラはある。
また、大人になれば先程の条件は全てを満たすのが難しくなる。
片方を満たしたと思えば、もう片方が難しかったりする。
なので、万人がしたいときにできないのもまた、学問のつれないところだ。
そんな学問のツンデレなところが、私を惑わすのである。

じゃあ、結局なんなんだ。お前の思うところどうなんだ。と、
この煮え切らない文章をイライラしながら読む人がいるだろう。
それは、私にもわからない。が、準備だけはいつでもできるのだ。
興味のある文献は揃えられる時に揃え、勉強や読書を思い出しかのようにする。
そうすれば、しかるべき時期に手を伸ばせばできる。
それに合わせて貯金は余念なく細く長く続ける。そうやって準備する。
「備えあれば憂いなし」と先人も唱えるように、備えることは学問にも必要だ。

勉強の下敷きはあなたの学生時代なのだ。だから、宿題は必要なのだと思う。
宿題は内容が大事なのではなく、机に向かう習慣をつけるのが大事なのである。
この話を大回りのカーブでのしてきた。その終着点は、学生にある。
学生時代(特に高校まで)は、したい!と思える学問はないかもしれない。
縛られる方が多いから。しかし、大学や社会人になればどんなものに手を出しても
(法に触れなければ)怒られない。だから、「大学は楽しい」のだと思うし、
社会人は「もっと自由になれる」と感じるのではないのか。

学生のうちは窮屈だが、そんな時間は人生の半分にも満たず、逆に選んでもらっていた「あの時代」を大人は懐かしく、羨ましく思うものだ。
人はないものねだりが好きな動物である。
だから、そんな窮屈だと思う学生時代には「未来を思い描くこと」つまりは、
「大人になったらこういうのしてやる!」といそいそ見えない準備をし、
社会や大学に出た人は、「出会い」つまりはいろんなものに触れることを
大事にすれば、いつか「学びたい学問」に手が伸びる。
その時に、どんなことができるかは自分次第ということになる。

手を伸ばした先には、学問はどこまでも続いているのだ。
学問との旅に終わりはない。だから私は生き急いでいる。





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