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2.母がステージ4の癌だと告げられた

タイトルの通りです。2週間ほど前に正式に下されました。

いやぁ、まさか。え?
最初に聞いた時の率直な感想です。

深い話もしたいなと思い、そのためには私や私たち家族の話を少しばかりさせていただいてから本題に入りたいと思います。

1.私の家庭事情
2.私について
3.3度目の乳癌
4.私が母にしてあげたいこと


1.私の家庭事情


元の私の家族構成は、祖母(父方)、父、母、私、弟の5人家族でした。
今から5年ほど前に、父が職場でパワハラなど様々な辛い思いをして精神崩壊してしまいました。鬱になり酒に溺れ……

母と弟と私で逃げるようにして家を出ました。
当時私は高校3年生で受験生、弟は小学4年生。弟には沢山の辛い光景を見せて泣かせて、苦しい思いを沢山させてしまいました。

母も私も、今でも多重人格者と化した父のことが怖くて仕方ないのですが、決して嫌いになったわけではないのです。
私たち家族3人はずっと胸に苦い思い出を詰まらせたまま過ごしています。


だからこそ、家族を人一倍大切にしています


2.私について


以上の家庭事情がある中、私は第一志望の大学に合格しました。
しかし、それは私立大学です。

家から通うこともできなくはないのですが、大学の近くで一人暮らしをすることにしました。

そこで、一人暮らしをするにあたって、自分自身にルールを課しました。



・受験の時から志望していた研究室に絶対に入る
・学費と家賃以外は一切の金銭援助は受けない
・お弁当を毎日作って持って行く
・沢山の社会経験をする


一つ目の点について。小学生の時から好きで興味あったことを研究したいと思っていました。
しかし、それはマイナーな研究分野だったので、目的を持って大学に入ったのだから、絶対に学業をおざなりにするなよ!!という意味です。


他の点について。目的は社会的自立です。

もちろん純粋にお金絡みの問題という意味もありましたが、母に何かあったときに弟を養えるように、と思っていました。


結果、アルバイトは5つ掛け持ちしています(笑)

ちゃんと研究も週6.7でやってます。なんなら、研究室の滞在時間はトップです。
友達からは同じ時を過ごしていると思えないと言われます…笑


3.3度目の乳癌

実は、母は既に2度の乳癌を体験しています。

1度目は約15年前


弟がお腹の中にいた時です。
この時の乳癌のタイプはトリプルネガティヴタイプ。

市川海老蔵さんの奥さん、小林麻央さんもトリプルネガティヴタイプだったはずです。


当時私は小学2年生でしたので、詳しいことは当時知りませんでした。ステージで言うと2と3の間らへんだったのですが、命の危険が非常にあったみたいです。

トリプルネガティヴタイプの乳癌では、抗がん剤治療を行っていたため、髪の毛が抜けていたのと、弟は一切母乳を飲めずに育ちました。

2度目は3年前



私が大学1年生から2年生になる直前、一人暮らしを始める前です。


1度目の乳癌とは違うタイプの乳癌。右乳房を全摘出し、ホルモン剤治療をしていました。

自分でしこりを見つけたらしく、超早期発見だったため特に大事に至ることなく終了しました。

ただ、2度目の乳癌ということで、かなりのショックを受けていました。母が弱音を吐いているのを初めて見ました。


母は入院することとなり、その期間小学生6年生の弟と1週間の2人暮らし。
これがきっかけで


私がしっかりして、母と弟を支えないと



と思うようになりました。
決して喜ばしい出来事ではなかったのですが、このお陰で自分は大きく成長したと思っています。

家族のことを強く強く思うようになり、私の幸せよりも母と弟の幸せばかりを願っています。


3度目の乳癌


まさかの、全摘出した癌の遠隔転移でした。
遠隔転移のためステージは4になります。

初めて聞いた時は、頭からステージ4が離れませんでした。

ステージ4



まさか、自分の母親が。ははは。
まさか。


この時大学院にいました。友達が周りに沢山いた中で報告を受けました。

多分、友達の前ではいつも通り何もなく振る舞えていました。

研究室の教授に話はしていたので、報告しなきゃ、と思い教授の顔を見たら、涙がボロボロボロボロボロ

あれ、何でか涙が…笑
すみません、涙出てきちゃって、はは。
すみません、すみません………


必死になって謝ってました。今思うと何で謝っていたんだろう。そのくらい辛かったのに。

教授は私にかける言葉を必死になって探しているようでした。
何も力になれないのが申し訳ないけど、辛い時は逃げてね、と。


4.私が母にできること


思えば、あの日以外涙は流していません。
辛くて、気づいたら落ち込んでるって時はたまにありますが。

悲しいことは紛れもない事実ですが



涙流しても何も変わらない
今私ができることを、今この瞬間をいつ母に見せても恥ずかしくないように
最後まで母に幸せだと思ってもらえるように

 

そう思っています。
高校3年生から、沢山の経験を通じて、随分と強くなりました。

前は大学1年生の時ステージ1の癌が見つかったと言われワンワン泣いていたのに。

決して泣くことが悪いことではないのは分かっているのですが、ちゃんと現実と向き合えるようになりました。


5年生存率は約30%
その30%だって、健康とは限らず病院のベッドの上かもしれない

そうなったら、高校・大学生の弟を支えるのは私以外誰にもいない


そして、母には最後まで自分らしく楽しく生きてもらいたい。
私は母の決める治療法を尊重し、母が母らしく生きるために、母が安心して過ごし切れるように自分ができることを精一杯やると決めました。



私自身、就活中でもあるので母に寄り添えないことができてしまうかもしれませんが

少しの時間でも長く、母の心の側に寄り添いたいと思いました。


そして、家を出てから長い間バタバタしていたり、一人暮らしのせいもありあまり家族らしいことはしてあげられませんでしたので

今からでも家族らしいことをしてあげたいなと思っています。



そういえば、延期になったAAAのライブ、家族3人で行くつもりでチケット取ってたなぁ。母と私が大ファンで。

母はとりわけNissy(西島隆弘)が好きなんですよ。歌声が癒されると、いつも聴いています。


母が元気なうちに開催してくれることを願います。


これからは度々、母のことがnoteにあがるかもしれませんが

心の中で応援してくださると嬉しいです。



大好きな母が、家族が、これからも楽しく生きれますよう



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