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2023年7月10日-7月15日のinstagramまとめ——ノンフィクションと歴史学との接点をもとめて

 こんにちは。もはや季節は完全に夏ですね……。これから2ヶ月ほど酷暑が続いていくと思うと、それだけで気が滅入りそうです。

 さっそく本題へ。今回のコンセプトは大まかに言えば、ノンフィクションにかんするものということになりそうです。もう少し詳しく言うと、前半3つは「ハウツー」本後半3つは実際の著作になっています。
 これらの本は、石戸諭さんの配信(左のURL参照)から影響を受けました。ということで、この配信で紹介されていた石戸さんの著作もここで紹介したという次第です。


今週の6冊

今週の6冊はこんなかんじです。

野村進『調べる技術・書く技術』(講談社現代新書、2008年)。
外岡秀俊『情報のさばき方——新聞記者の実践ヒント』(朝日新書、2006年)。
外岡秀俊『おとなの作文教室——「伝わる文章」が書ける66のコツ』(朝日文庫、2018年)。
石戸諭『ルポ百田尚樹現象——愛国ポピュリズムの現在地』(小学館、2020年)。
石戸諭『東京ルポルタージュ——疫病とオリンピックの街で』(毎日新聞出版、2021年)。
山際淳司『江夏の21球』(角川新書、2017年)。


簡単なレビュー

①について。この本は、ノンフィクションライターに不可欠な能力である、取材と執筆の方法について、かなり具体的なところまで踏み込んで教えてくれます。取材時のメールの書き方とかもあったりします(笑)。ちなみに著者の野村進さんは、アジアをフィールドとしたノンフィクションを数多く書かれている方です。
②について。こちらは朝日新聞の記者でありながら、作家としても活躍された外岡秀俊さんによる、取材・執筆の指南本です。
③について。こちらは外岡さんの文章添削教室みたいなテイストの本です。具体的に執筆の妙を知りたければ「もってこい」の本かなと思います。

 ④について。ここから2冊は、もともとは毎日新聞の記者で、いまはノンフィクションライターとして活躍中の石戸諭さんの本が並びます。『ルポ百田尚樹現象』は、「右派的」な歴史観を持つと言われる人気作家が、いまの社会で受け入れられている理由を探索する本です。
 歴史学の院生をしていると、政治的イデオロギーと歴史の関係について考える機会が訪れるものですが、そんなときにたいへん有用になる本だと思いました。
 また、歴史学において「物語」をどのように扱うかは、昔からいろいろと論争があるわけですが、この問題を考えるうえでも非常に重要だという印象を抱きました。

 ⑤について。『東京ルポルタージュ』については結論から言うと、ここ数年で読んだ本のなかでも数本の指に入るのではないかというくらいに感動しました。もちろん、小説、映画、そしてアニメ等のフィクションも人びとの心を動かすことはあるとは思いますが、ノンフィクション(=事実)が持つ力もまったくそれに負けないなと思わされました。
 感染症とオリンピックに翻弄された2020-2021年の東京。そのなかでみずからの仕事をし、日常を暮らす人びと。有名人でいうと佐野元春や高知東生も登場しますが、それ以外のいわゆる「普通の人びと」のほうが多数本書では登場します。そんな人たちの「生」をありありと感じさせる文章が、とても良かったです。
 うまく言葉では表現できないですが、いまの自分にとってはとても「グッとくる」いい本でした。

 ⑥について。こちらはおそらく日本でもっとも有名なスポーツノンフィクションの書き手、山際淳司(1948-1995)の名作集です。石戸さんも各所で山際さんから影響を受けたことをおっしゃっています。
 本書の収録作品のなかでも、1979年の広島対近鉄の日本シリーズをえがいた表題作「江夏の21球」や、いま全国で予選が行われている高校野球を題材にした「スローカーブをもう一球」は有名ですね。


ノンフィクションと歴史学

今週の6冊は以上のように、石戸さんの著作をはじめとして「ノンフィクション」に関係する本を並べてみました。このnoteの後半部では、「ノンフィクション」と歴史学の関係性について考えていくことにしたいと思います*1。
 なお、もうひとつ補足しておくと、ここでいうノンフィクションとは「ジャーナリズム」の要素を多分に含み込んでいます。また他方で、ここでいう歴史学とは、歴史学だけにかぎらず人文系(社会科学系や理工系も場合によっては含まれると思います)のアカデミックな分野すべてに互換可能です。なので、ここで提示しているノンフィクションと歴史学という対立軸は究極的には、ルポルタージュ・ノンフィクション・ジャーナリズム↔︎アカデミズムと重なると考えていただいて結構です。

両者の共通点と相違点

ノンフィクションと歴史学。両者は大雑把に言うと、フィクションではない「事実」を論じるという点で大きな共通点を持っています。具体的に言えば、著者みずから、ある事実に到達するべく、ありとあらゆる手段を講じて調べ上げ、最終的にひとつの文章として仕上げるという作業をしていると言えます。
 ノンフィクションでは、事実に到達するべく、調べる作業つまり「取材」を行い、多くの場合は雑誌や書籍等の商業媒体に掲載される文章を執筆して発表します。他方、歴史学は、「(史料)調査」をおこなったり「先行研究」を読み込んだりしたあと、多くの場合は研究論文としてその成果を発表します。両者ともに、「事実に到達するべく詳しく調べて執筆する」という点において、同じようなプロセスを経ます。
 今回紹介した①②③の文献を読んでいて実感したことなのですが、両者の性質が近いからか、ノンフィクションのハウツーは、歴史学(ひいては人文系の研究)にも通用する部分は多いです。大衆に求められる専門性が求められるかの違いこそありますが、突き詰めていくと、人に会って話を聞き、関連する資料を読み、調べた内容をできるだけ読者に伝わるように文章を書くテクニックにおいては、そこまで違いがないのだと思います。
 分野が違えば、他分野のハウツー本を読む機会が極端に少なくなってしまうものですが、学べるところは遠慮なく学んでいけば良いので、こういった本も積極的に読んでいきたいところです。

 先ほどまではノンフィクションと歴史学の共通点を述べたみましたが、両者にはもちろん相違点もあります。
 ノンフィクションと歴史学は、当然と言えば当然なわけですが、違う出自を持つものです。言うまでもないことかとは思いますが、もっとも違う点は、大雑把に言えば前者は商業出版やジャーナリズムから登場したのにたいし、後者は大学やアカデミズムから登場したと言えると思います。

 この出自の違いは、文体に影響を与えます。ノンフィクションでは、雑誌を読む読者、すなわち一般大衆にも理解できる言葉で事象を説明しなければなりません。つまり、取材する社会現象や人物が、どれだけ複雑で難しい問題を抱えていたとしても、平易な言葉に落とし込んでいく必要があります。複雑さや難しさをできるだけ見ないようにして、単純化することはたやすいわけですが、この複雑さと難しさにこそ、取材する意義や執筆する意義が宿ります。わたしはノンフィクションライターではないので見当違いなのかもしれませんが、ここが腕の見せ所といったところなのでしょう。
 いっぽうで、歴史学は専門家たちに認められる言葉で書かないといけません。専門的な知識を、数十年にわたって調べ続けて考え続けてきた猛者たちを納得させるのは、容易ではありません。「きみの調べたいテーマはもう違う人がやってるよ」「きみのテーマなら〇〇っていう資料が関係するはずだけど、それはもしかして読んでないの?」みたいな厳しい指摘をかいくぐっていく必要があります。この指摘を経てこそ、事実への信頼度を担保できるという共通理解があり、またそれがアカデミズムたる歴史学の頼みの綱となっているといえるでしょう。

 ここまでで両者には共通点と相違点があることを述べてきましたが、重要なのは両者とも目的や手法は共通しているが、出自の違いから文体に大きな差があるといえるというとことでした。ここから先は、さらに文体の問題へと突入してもっともっと難しい問いへと展開していくことになりそうなので、読み飛ばしていただいても構いません。また、それらを述べていくとなるとキリがないので、ここではそのなかのひとつの論点を提示するにとどめたいと思います。それは、「物語の叙述 vs.事実の叙述」の構図についてです。
 ノンフィクションと歴史学においては、結局のところ、物語性を大事にする書き方をするか、あるいは主観をできるだけ除いた客観的なファクトや正しさに重きをおく書き方をするかという選択がつきまといます。物語と事実の対立とも言うべきでしょうか。一般的には、ノンフィクションは前者を、歴史学は後者を重要にする傾向が強いと思います。
 ちなみに「物語の叙述 vs.事実の叙述」問題は、両者の文脈ですでに議論されてきたことでもあります。ノンフィクションの文脈でいえば、日本人の書き手でいうと沢木耕太郎さんなどに代表される「ニュー・ジャーナリズム」の動きが出てきた頃に活発に議論されました。また、歴史学の文脈でいえば1970-80年代くらいから「物語」を重視する流れが生まれました。ここで議論されたことは、たとえば野家啓一『物語の哲学』などに詳しく書かれてい(たと思い)ます。具体的に言えば、執筆者の解釈(場合によっては想像)をどこまで認めるか、また執筆者が1人称の視点で書くのかそれとも3人称の視点で書くのかといった論点があります。
 ノンフィクションにおいても、歴史学においても、物語と事実の折り合いをいかにしてつけて、そしてどのような文体を採用するべきなのかという共通課題を持っていることは確かですが、その回答としてはやはり、前者が物語寄りに、後者が事実寄りになってしまう傾向は否めません。なぜなら先ほども述べたように、誰のために文章を書いているかが違うからです。次からは、両者の接点をどのように求めるかを、具体例を挙げながら考えてみたいと思います。


武田徹&石戸諭という補助線

 ノンフィクションと歴史学の相違点は、当事者たちにとってはシビアな問題となります。お互いはお互いの矜持があるので、両者のあいだには緊張関係があるわけです。
 しかし、やっぱり両者は事実の探究という似た目的意識を持っていることは否定できないことであり、両者が両者を無視する状況は、お互いにとってもったいない。ノンフィクション(またはジャーナリズムやルポルタージュ)と歴史学(ひいてはアカデミア)は共生不可能なのでしょうか

 この問いを考えるうえで、「武田徹」という補助線を引いてみたいと思います。武田さんは、批評、アカデミズム、そしてジャーナリズムのはざまに位置するような作品を多く発表されている書き手です。そして、近年の新書では日本のノンフィクションを歴史化するべく、ノンフィクションというジャンルの名著や歴史を紹介するものを書かれています。歴史学的にいえば、ノンフィクションのメタヒストリー、とでも言うべきでしょうか。
 個人的に思う珠玉の作品は、『偽満州国論』と『「隔離」という病い』です。後者について「すごい点」を述べるとすると、『「隔離」という病い』ではジャーナリズム・ルポルタージュ・ノンフィクションの要素と、現代思想の言葉をもちいた批評の要素が融合していて、さらにこの試みが成功しているところにあると思います。
 『「隔離」という病い』は、ハンセン病についての書き物としておそらく最も有名な本であろう『生きがいについて』を執筆した精神科医の神谷美恵子、病と権力の関係を論じたフランスの哲学者ミシェル・フーコー、さらには『アナーキー・国家・ユートピア』の主著によってリバタリアニズムの理論家として最も有名なアメリカの哲学者ロバート・ノージックの言葉を用いながら、近代日本の医療の問題点を、ハンセン病という切り口で分析している本です*2。

 いろいろと武田さんの著作について述べましたが、重要なのは、ジャーナリズム・ルポルタージュ・ノンフィクションとアカデミズムの越境を試みているところです。つまり、武田さんはハンセン病のリアルを伝えるというときに、双方のいいところを拝借する手法を取り入れているわけです。この越境性こそが、新しくオリジナリティあふれる文体を生み出しているといっても良いかもしれません。
 武田さんの試みは両者の接点を考えるうえで重要です。両者の調停のしかたは、いろいろと方策はあるとはおもいますが、ひとつの回答として武田さんのものは優れているのではないかと思っています。

 そしてもうひとつ、補助線を足してみましょう。その人物こそ、今週投稿した『ルポ百田尚樹現象』と『東京ルポルタージュ』の著作である石戸諭さんです。
 2つの著書の内容についてはすでに述べましたが、この両書からノンフィクションと歴史学の接点を考えてみたいと思います。まずは前者から。結論から言うと、『ルポ百田尚樹現象』は、歴史学者が用いない手法・アプローチから「歴史」について考えているとてもいい本だと思います。さきほども述べたように、歴史学は事実を述べることを重要視し、そこに極力物語の要素(つまり個人の解釈やあるいは偏見のような主観性)を入れることを嫌います。だからこそ、歴史研究者の一部の方々は、百田さんの本への批判として「この本は事実と違うではないか」という批判を寄せました。
 しかし、ノンフィクションの書き手である石戸さんの視線は、百田さんの本を手にする読者のほうに向いています。なぜ百田さんの本が一般読者に受け入れられるのか。この視線は、普段一般の読者を相手に文章を書くノンフィクションという舞台で活躍される石戸さんにこそ持つことのできるものだと思います。
 そして後者の『東京ルポルタージュ』は、都会に生きる一般の民たちをありありと描写する本ですが、この視線は、歴史学(とくに西洋史の文脈)と引き付けてみると、ウォーラーステインの紹介者であり、またイギリス史研究の大家であるところの川北稔さんの著作に共通する部分があるなと個人的には思いました。具体的にどこかと言われるとなかなか厳しいのですが、すごく大雑把にいうと民への目線が似ているのではないかと。
 もうひとつ。ある個人に焦点を当てて、それを物語化する手法は、歴史学の文脈では「ミクロストリア」「ミクロヒストリー」などと呼ばれます。『東京ルポルタージュ』で描かれる人びととそこから紡がれる物語は、とても読者にとって魅力的なものです。のちの時代の歴史家がミクロストリアとして描くに適した素材を多数提供しているようにも思えました。
 このように、石戸さんの著作については、個人的な感想みたいな部分が多くなってしまい説得力と言う面ではかけてしまっているのかもしれませんが、アカデミズムの手が届きにくい場所にしっかり目を向けていく視線がとても素晴らしいと思います。石戸さんの著作には、武田さんの本のような直接的なノンフィクションとアカデミズムの越境がよく見られるわけではありませんが、ノンフィクションとアカデミズムがお互いを補完する関係にもなれるということを示しているように思われます。

 以上、武田さんと石戸さんという補助線を引いてみると、ノンフィクション(またはジャーナリズムやルポルタージュ)と歴史学(ひいてはアカデミア)の共生のありかたが、なんとなく見えてきたように思います。つまり、武田さんの場合はその両者を越境させ、石戸さんの場合はその両者を補完させていると言えるのではないでしょうか。

まとめ

 このnoteの後半部では、ノンフィクションと歴史学のあいだの接点をいかに求めるべきかを考えてきました。そこで、両者の性質を検討し、また二人のノンフィクションライターの活動を補助線に、共生のありかたを探そうと試みました。
 両者には目的意識や手法、そして文体をめぐる論争があった点で共通していますが、しかしながら、読者の存在や物語と事実の力点の置き方など根本的な違いがあり、簡単に繋げればいいという話で片付けられない点もあります。
 そこで、武田さんと石戸さんのようなノンフィクションライターの著作を、あくまで大雑把ではありますが、見てみると両者を越境したり補完させたりして上手く共生させる手はあるのではないかと思えるというのが、このnoteの趣旨でした。
 結局、全体で7000字をオーバーすることになってしまいましたが、これでもまだ議論すべきことは尽きませんね……。またよければこのnoteを覗きにきていただけると幸いです。


*1:「ノンフィクション」とは何かを定義するのはなかなか難しいのですが、ここでは「事実」を扱う文章(小説等のフィクションではない)であり、かつ大学でおこなわれているような「研究」「論文」からは外れる領域の文章であると理解していただければ幸いです。無論、この定義で十分すべてを説明できているとは思っていません。これらの点については、武田徹さんの著作等を参照。武田徹『日本ノンフィクション史——ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで』(中公新書、2017年);武田徹『現代日本を読む——ノンフィクションの名作・問題作』(中公新書、2020年)。
*2:この本はとても面白いので、だまされたと思って一度手に取ってみてください。ただしいまは新品では買うことができず、中古で手に入れざるを得ないと思われます。武田徹『「隔離」という病い』(中公文庫、2005年)。

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