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映画「ドライブ・マイ・カー」 小説を映画として再構築する意味

3時間に渡る長編映画である「ドライブ・マイ・カー」だが、原作となった村上春樹の短編小説は、実は50ページにも満たない。独自のストーリーと他の短編作品のモチーフを組み合わせて大胆に再構築された本作品は、単なる映画化では無く新たな作品と言って良いだろう。どちらかといえば映画よりも小説に馴染み深い自分だが、この映画は原作を大きく超える衝撃を与えてくれた。それが何だったのか、簡単に振り返っておきたい。

映画として表現するということ

漫画「ブルーピリオド」で美大生の主人公が「そのテーマを絵画で表現する必要はあるか」と問われる印象的なシーンがある。この問いは、本作品に対しては、こう置き換えられるだろう。小説の原作を、映画として表現し直すことの価値はどこにあるのか?

小説を映画化するということは、小説には描かれない無数の聴覚・視覚を、現実の音と映像として表現するということだ。この音と映像へのこだわりが、本作品は際立っていると感じた。緻密に計算された音と映像が、圧倒的な力を持って視聴者を世界の中へ引きずり込んでゆく。原作の小説は、どちらかといえば淡白に第三者の視点から主人公を描く作品だ。だがこの映画では、視聴者は主人公の等身大の苦しみを文字通り目の当たりにし、共に背負っていくことになる。

まず冒頭のシーンからして秀逸だ。美しい逆光の中、深いシルエットの女性が静かに語り始める。彼女が「沈黙が訪れる」と言った瞬間、背後に流れていたかすかな音が消え、完全な沈黙が映画館を包み込む。音が鳴っていない、沈黙という名の音がどんな音よりも力強く響き、我々はスクリーンの中へと引きずり込まれる。

場面転換の音の使い方も繊細で印象的だ。例えば、場面が変わる際に、音が映像から数秒先行して切り替わるという手法が何度か見られた。内容の連続を表現するために、場面間の境界を溶け込ませる狙いがあるのだろう。また、北へ向かう道中を描く、環境音の連なりも圧巻だった。車、トンネル、雨、波、フェリー、そして雪景色に降りる沈黙。劇場中が息を飲んで画面に釘付けだった。

再構築された主題

複数の短編小説とチェーホフの戯曲を掛け合わせて描かれた本作品の主題は、とてもシンプルで力強い。他者に存在する理解できない部分から目を背けるのではなく、それも全て含めてその人なのだと受け入れること。居心地の良い距離を守ろうとして、正面から向き合わなかった主人公は、妻の死から2年越しに初めてその後悔と向き合う。「妻に会いたい。会って叱りつけてやりたい。」から始まる主人公の慟哭は、真っ直ぐな言葉ゆえに深く心に突き刺さる。

原作の村上春樹の小説の主題は、男性的で、ともすれば前時代的な印象を与えなくもない。それを本作品は、より普遍的でそれでいて力強いものへと昇華させてくれた。

おわりに

音と映像が印象的な本作品、是非映画館で見て欲しい。いくつか興味深かったインタビュー・考察をまとめておく。

原作からの変更点やサウンドデザインなどに関する監督へのインタビュー。

サウンドを切り口にした監督へのインタビュー。

冒頭の場面に関する監督へのインタビュー。

本作品と村上春樹の短編小説とチェーホフの戯曲との関連についての考察。

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