もういらない

ちょうど一週間になる。

はっきり言ってしまえば辛くはない。

一週間前からインスタグラム、Twitter、LINEを止めている。

その代わりに誰も見ていない鍵垢のTwitterに思ったこと、感じたことを書いている。

もう覚えている人も少ないかもしれないが755にも掃き出し口を作った。


”誰にどう見られているか”にとらわれすぎてしまう私は、SNSに向いていない。

決して誰かを誹謗中傷しているわけではないが何故だか釈然としない。


755って誰が自分のページを訪問したかわかるんですね。あの昨日ほんま不要ですわ。



他人のSNSを覗かなくなった結果、知人と比較して劣等感にさいなまれることは少なくなったが、自分がいなくても当然のように誰も気付かない。

一人だけ連絡をくれたがそれにも返答していない、したくない。


自分という存在がわからなくなってしまう。

自粛期間であるから、他人に会うことが出来ずSNSが唯一の生存確認が取れる手段である。

それを止めてしまった私はもしかしたら死んでいるかもしれないし、入院しているかもしれない。でも誰も心配していないのだ(笑)



何故一週間前にぱたりとSNSをやめたかというと、一つの小さな不幸が私の心を蝕んだからだ。

想像力が豊か、と言ってほしいのだが、私は一つのことを派生して考えて、ほかの出来事とつないで考えてしまう癖がある。


「わたしが蔑ろにされた」という事実からどこまででも悲しい妄想は広がっていく。


哀しかったからSNSをやめた。それだけである。



SNSをやめたからって自分のことを無駄に考えることはやめられない。

むしろその時間が増えたのではないかと思う。


さっき、本当についさっき思ったことは

「事実としての可愛いはもういらない」


既出のラブソングを女性目線で歌うユーチューバーの投稿をいくつか見た。

女の私から見ても可愛かった。

私には決してこんなにかわいい発想はできないと思う内容だった。

なぜなら私はどんな時も「こういうのかわいいっしょ??」と思いながら生きているからだ。


「普段でもかわいいのに そんな目で見つめられたらキャパオーバー」

この歌詞を聞いて私は心臓がギュッと締め付けられた。

そして思った。「わたしは事実としての可愛いしかもらえてない。」


私は事実顔立ちが平均よりも整っている。服装やメイク、髪型などすべてに気を遣い、「あざとい」と同性には揶揄されるほど「可愛い」を追求した言動をする。


可愛い。


これは私にとっては当然のことなのだ。だって可愛いと言われるようにしているのだから。


でも上記の歌詞は違う。

普通に生きて、ありのままに生きて「普段から可愛い」そして、「キャパオーバーさせられる視線」を自然と操っている。


私はすべて計算、そして言われることが当然の「可愛い」をもらう。


この差に私はかなり心臓をえぐられた。

私の可愛いは付け焼刃で、本当の意味を成す可愛いではない。

自覚はあったけれどもやはり気づかされるたびに傷つく。


私がもらう「可愛い」は事実だ。

しかし、いとおしさからくる「その人だけの可愛い」がない。

いわば張りぼてだ。


張りぼての自分を脱却する方法までは思いついていない。

脳みそが甘いお菓子に侵されているから小手先のことしか思いつかない。


私は今後、事実じゃない可愛いを手にするにはどうすればよいのだろう。


きっともうすぐ他者と関わらざるを得ない状況がやってくる。

その時、私はどんな自分で勝負することになるのだろうか。