推しの女

昨日も書いたオタク話。

何かのオタクになって11年、私はずっとオタクとして生きてきた。

近年、といってもこの一年くらいであるが、ある志向の元オタク活動をより充実させている。

それは「推しの女」という自我を持つこと。

この思考は割と理解されないため、気持ち悪く感じる人もいるだろう。

昨日書いた「推しのために可愛くなる」との相違がわからない人もいるかもしれない。

しかし、私はこの思考でこれまでのオタク生活、そればかりか日常生活をも豊かにすることが出来ていると考えている。


「推しの女」とはどういうことかというと簡潔に言えば「推しに好きになってもらえる女」である。

これはあくまで私なりの「推しの女」解釈であるため、ほかの解釈をしている人もいるだろう。

私は、推しの好みに寄せず、自分の好みを基準に自分に似合う物、ベストな自分を追求し、推しとばったり遭遇した時にあっちから先に視線を頂く女になることが「推しの女」として生きることだと思っている。

あくまであっちから、あっちの視線を頂きまゆゆするために日々努力する。

ばったり遭遇するという一縷の希望にかけているが、そのために一日たりとも気を抜かない。

どんな時もきれいな女でいる。

それが推しの女として生きるという私の根本思考だ。


そして、実際に推しにばったり遭遇したことがある。

推しの女としての自我をバリバリに持っていた。

もちろんフルメイク、巻いた髪の毛をポニーテールにし、ライダースにお気に入りの赤いマフラー

推しの好みとは程遠かったけれど私が一番輝くスタイルで歩いていたところ前からイケメンが歩いてきた。

既視感のあるイケメンだったため、よくよく顔を見るとあっちもこちらに視線をくれた。

私が話しかけるまで推しは目をそらすことなく私を見てくれた。

先にあちらの視線を頂きまゆゆすることはできなかったが、推しに視線を頂いたことで「推しの女としての私」が肯定された気がした。

 


最近は、自粛期間で家とスーパー、コンビニしか行かない日々ではあるが推しの女だから決して太らないように、肌荒れしないように、綺麗をキープできるように気を付けている。


「推しのために可愛くなる」よりも「推しの女として生きる」に思考をシフトチェンジしたら、推しが変わっても、推しがファンを裏切っても自分の可愛いは残る。


全オタク女、推しの女として生きる、オススメです。