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シャニマス|いきどまりの自由って、なに?

本感想は6分程で読めます。

タイトルで釣っているようで申し訳ないのですが、
この文ではメカニカル恐竜やム〇ム〇りっか、
延いては灯織も出てきません………パリッ

こっちはムキムキにちか


※ネタバレ注意です
※ただの感想かつ稚拙な解釈ですご了承くださ(ry



イベント画面を開くと映る
エモーショナルな夕刻のイラスト
深そうなタイトルに若干の敷居の高さを感じつつ
再生ボタンを押すと映る
軽薄すぎるインフルエンサー()のコメント。

うっす 風邪でも引いたんか
うすいかも‌ ‌ ‌うっす

実際に内容が軽薄な訳ではない…と思うのですが
口振りが自由奔放すぎて…
何か伝える際の所作は大切なんだな、
と身を引き締めます。

今回のお話は「自由と制限」について。

稚拙で雑多な文ですが、
お付き合い頂けたらと思います。


今回の構造

今回は誰かがノクチルを通してインスピレーション
を表現する、表現したい!という内容のお話です
誰かといっても基本的に登場するのは
・インフルエンサー
・映像関係の専門学校に通う卒業間近の学生
だけなのですが、様々な面で対照的に描かれます。

インフルエンサーは透と円香達の通う高校に訪れた
卒業生訪問の際に、
専門学生は雛菜と一緒の自由律俳句のお仕事で、
それぞれノクチルに触れます

そしてインフルエンサーからはコラボの、
専門学生からは卒業制作のショートムービーへの
出演を検討されるのですが、
その出演依頼の伝え方というのも様々で、
各々の伝え方をもって283プロへ依頼をしに来ます。

先の卒業生訪問で「突っ走って欲しい」と言った
インフルエンサーは電話でアポも取らずに
事務所へコラボを直談判しに来ます

一方専門学生、俳句のお仕事では和やかな雰囲気を
壊さないように空気を読み周りと歩幅を合わせます
依頼の際もきちんと電話をしています。

この様に依頼の方法も三者三様というか、
二者二様なのですが
結局、ノクチルの"そういうの"とより波長の合った
専門学生の卒業制作へ出演する事に決めます。

決して明言も詳細な説明もされない
繊細な、そして言語化すると煩雑な
ノクチルの"そういうの"

相性や縁、雰囲気等を全て引っ括めた言葉だと
思うのですが、インフルエンサーの
「ノクチルは、"そういうの"じゃない」
という言葉に悶絶したノクチル推しの方々も数多く
いらっしゃるのではないでしょうか。


自由律

シナリオでは専門学生とノクチルを繋ぐ物として
登場した自由律俳句。

何故コメントやテーマ、キャプション等では無く
わざわざ"自由律俳句"を取り扱ったのか。

理由は、自由律俳句という物が
俳句という体裁を名に持つのに
これを出力、表現する際には
俳句特有の制限を一旦全て撤廃する必要がある
という所に。

この様に、考える際に完全に放り投げ出される
訳ですが、これが急には本当に難しい…
「速攻で575作って!」の方がまだ簡単…

因みに江戸時代中期、
趣の深い俳句の後ろに
「それにつけても 金の欲しさよ」
という連語を付ける遊びがあったそう… 

例〉古池や 蛙飛び込む 水の音
   それにつけても 金の欲しさよ〜

出典 : 松尾〇蕉(金欠)

金欲し付合と呼ばれるこの遊び
やっている事は、雅な上の句に
あえて下世話な下の句を付ける事で
その下の句の存在の強さと落差を楽しむという
トム・ブラウンもにっこ凛世の
合成言葉遊びなのですが、
これがしている事はまさに表現の制限です

表現が固定されているにも関わらず
上の句の候補を次々と思いつくかと思います
これは下の句の制限が
制限に沿った上の句の見当を付け易く、
つまり上の句にしたら面白い俳句を探し易く
している為です。

このお話ではまず専門学生が自由律俳句に
悩んでいたのですが、
ノクチルという凶器に触れ、
ノクチルの自由と眩しさを通して
映像制作がさくさく進んでいく様は
まるでノクチル付合とも言うべきですかね…

各々の自由律俳句については
本人達の「らしさ」というものが
シナリオと上手く混ざりあっており、
これはこれでニヤニヤできるのですが
これ突っ込むと6分どころでは済まないので
今回は少し置いておきます

雛菜『はぜる、色づく、ずっと』
円香『そういうのが1番嫌い』
小糸『わたし自身の言葉を作らなきゃ』
透    『そういうんじゃない でも──それでもない』

エンディング : 始まり(終わり)の切れ端 より


制限と自由

この自由律俳句のお仕事の様に
創作物が雑誌に載る様な場面で
「はい、自由に考えていいよっ!
 制限も何もないからねー
 どうぞっ!」
と何かを渡された時、
大半の人が処理に困るかと思います。
時たま雛菜みたいに速攻処理出来る人も居ますが

何かを進める際にはやっぱり導線が
欲しいもので、如何にして優秀な
テンプレートを見つけられるかが
勝負になる様な場面もあります。

例えば勉強する際
・休憩時間を10分に定める
・勉強する場所を固定する
・25分タイマー
等は勉強の効率を上げる為の有用なライフハック
として広く認知されていますが、詰まる所これらは
勉強方法に制限という導線をつけている訳です。

制限があるからこそ進む話もあるという事
この場合の制限は、規制という意味だけでは無く、
区切りという意味も含みます
物事に一旦行き止まりという区切りを付ける、

区切り、終わりがあるからこそ輝く
今回の卒業制作のコンセプトの1つの青春は
まさにその代名詞とも言える概念でしょう。

いきどまりの自由
年度の一旦の終了を指し、眩しい青春の儚さと自由
を教えてくれるという、当初の不穏な印象とは異な
る心温まるシナリオでした。


エンディングタイトル

始まり(終わり)の切れ端

制作が無事終わり、
動画がアップロードされてから

プロデューサーが出来た作品を
何回でも見たくなるのは
コンセプトを秒数や表現に制限のある"動画"
に上手く切り取ったからで、無いはずの動画の先を
見たくなるからでもあるかと思います。

動画をループすると始まりと終わりが繋がります
この作品を見る人の中には
青春をこれから始める人も
青春をもうすぐ終える人も居るでしょう

電車、図書館、
人生の春の舞台の中に描かれる学生さん達

そういう人達が区切りのある、制限のある青春
という物を改めて認識する為の切れ端に
この作品はなったのでした。


後書き

以上、「いきどまりの自由」感想文でした
じわっと染み渡るこのお話、
季節柄、同じく卒業研究に追われる身としては
専門学生さん優秀過ぎて
これで監督業出来ないなんて狭き門だなぁと 
(まずは卒業論文書けって?その通りです…)

ノクチルピックアップのシナリオでしたが、
主人公は専門学生、つまり社会の優劣の中で
もがく人の為の物語の様に受け取れます
今を悩む画面の前の方々へのエールでもあったの
では無いでしょうか。

イベント開始は01月30日
新年を迎えて早1ヶ月が経とうとしている頃、
来たる卒業や進級、バレンタインに心が踊りつつも
その華やかな行事の裏側に潜む春特有の寂しさが
徐々に迫り来るのを感じさせます。

開始日の都合もあるかと思いますが、
ここで、年始を取り扱うイベントではなく
年度の"区切り"に着目する所にシャニマスらしさ
を感じたり…


イベント第1話オープニングタイトル
「限りある日常」
限りあるからこそ輝くのは画面の中の抽象概念の
お話だけではなく、、、

──ましろの

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