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法政アカデミー60回記念定演へ③(終)

↓の続きです!今度こそ、最後まで!

第三ステージ!その前に…

 ついに、第三ステージ。大崎清夏先生の詩に、市原俊明先生が作曲された混声合唱とピアノのための組曲
この星で」の開演です。また、この「ついに」というのは今回の演奏会のことも当然ですが、なにより私にとっては「委嘱が決まった2年前から」という意味も含んでいます()曲の前に少し自分の話をすると、私は市原作品厨です。私が在団していた当時、学生指揮者として自由に曲を選べたステージの2/4は市原先生の作品でした。

・混声合唱とピアノのための「Souvenir du japon
・混声合唱とピアノのための「印象

のふたつ。特に「印象」の方は「合唱を辞めなかった」きっかけでもある曲なんです。というのも、私が大学一年生の時、合唱を続けるかをかなり悩んでいました。所属合唱団の活動が高校と比べてなんとも煮え切らないし、和太鼓は続けたいし、辞めてしまおうか…と思っていたところで出会ったのが、当時、全日本合唱コンクールの課題曲G4であった、混声合唱とピアノための「印象」より「角を吹け」だったんです。聞いても歌ってもカルチャーショックで「こんなに素晴らしい作品が世の中に出てくるなんて!」と、思わされたことで合唱が続けられましたし、その後、指揮を振ることにまでなりました。それ以来、市原先生のファンであり、法政アカデミーでも伴奏をしていただいたり所属されていた合唱団に押しかけて、今も一緒に歌わせていただいたりしています。ということもあって、無理やり()にでも作った市原先生との繋がりから法政アカデミーが60周年の記念委嘱をお願いすることになって本当に嬉しかった!というか、2年間本当にこれを楽しみに生きてきました。私自身も新型コロナウイルスの感染拡大で思うように活動はできずにいましたし、それは昨年度〜今年度のアカデミー合唱団にも言えることでしょう。しかし、そんなことも忘れさせるくらいには素晴らしい演奏による素晴らしい作品が、初演されたのでした。身の上話はこれくらいにして、作品の感想に移りましょう。

混声合唱とピアノのための組曲
「この星で」


 おらしょは楽章ごとに書いていきましたが、こちらはまず「組曲として」の素晴らしさや、単純に初演であるため前提とする知識が浅いことなど諸々を踏まえて、まとめて書いていこうと思います。
 「組曲として」の素晴らしさは、他の市原作品にも言えることであると思います。「組曲」としての繋がりを意識して書かれた作品が多く、循環形式などを用いた伏線回収など「組曲としての統一感」が印象深いのが特徴の一つでしょう。ですが、今回は特にそれが凄かった!一つ一つの詩に本来つながりがあるのかは分かりませんが、聴き終えた感覚としては「ひとつの物語」でした。詩は大崎清夏先生の詩集『踊る自由』と『新しいすみか』から4つが選ばれています。この言葉も演奏が終わった後改めて眺めてみたら本当に素晴らしくて…出版物であるため言葉の引用ができない(購入しよかな)ことが歯痒いので、皆さんぜひお買い求めください🙇‍♀️

 詩を引用できないからこそ、ちょっとここからは今振り返った感想ではなく記憶を頼りに「当時」私の中で起こっていたことを主観で、なるべくライブ感を持って書いてみようと思います…↓

 歌詞カードは配られていたが、せっかくなのであまり見ないことにした。事前情報として、今回の委嘱作品は「言葉が多い」ことを知らされていたからだ。また、市原先生からは「今回の曲のヒントはYOASOBIです」と伺っていたこともあって、あえてリアルでなにが聞こえてくるのか、未知な何かにもうワクワクしながら聴きたくなってしまって。まずは1曲目「永遠と一日」が始まった。「あなた」と見覚えのない「その人」の話。一歩引いて、少しずつ「あなた」と共に作品の中を彷徨っていたはずが「踊ることに」した途端、一気に吸い込まれてしまった!そうか、これが市原先生の作品でした。毎度のことながら引き込み方が本当に凄い。ただ永遠に踊り続けるわけでもなく、再び「あなた」を捉えた。というか、思っていたより一曲目が長い?なんなら終曲にもなり得そうなスケールだけどこの先どうなるんだろう?
思いも尽きないうちに各パートからソロが出てきた。ああ、あの彼が!彼女が!え、あの上手い子は誰⁉︎と、曲も忘れて心の中はまるで孫の学芸会に来たおばあちゃんのようだ。あ、そんなことしてたらまた踊り出しちゃった…と思えば、この詩のテーマともとれる「円環」を描き壮大に締めくくられ…ない?くる?ataccaくる?atacca来た!!!2曲目「ジョーカー」!!!
市原先生の組曲では必ずataccaが現れると踏んでいたものの、来てしまったときの諸筋肉の緊張がすごい。またしても「あなた」のことを。シンプルな6/8拍子?だろうがあまり健康的ではないようだ。不協和からも、畏怖や醜怪なさまが想起されてしまう。というかかなり細かいテキストなのに「あなたは〇〇」がハッキリ聞き取れるの凄いな、と、急に我に返った。と思えば曲は止まり、聞き覚えのある旋律が。これが主題の一つなのかな?そして最後まで「あなた」のことだ。
 ここからは3曲目「うまれかわる」…どんなふうに?と思えば楽しそうに、服をたくさん捨てたのね☺️
これまでのシリアス・グロテスクはどこへやら、描かれているのはまさに「今」だ。そして会場に「今」流れているのは底抜けに明るい時間だ。あ、パンプスは捨てられなかったのね…でもよかった!音からもテキストからも聞こえてくる、何にでもなれるような、どこへでも行けるような身軽さが楽しく心地良い…と思った途端にまたataccaですか()まさか2回目が来るとは。しかも「今」をありのままに切り取った曲となぜ繋げたんだろう?と、あたふたしてたら始まった4曲目「次の星」が、またまた聞き覚えのある音楽と共に始まった。
「今」から時は流れ、荒廃した地球から「次の星」へ移ることにした人々。しかし「わたし」が抱えているのは皆が使う「次の星」という言葉への猜疑心。まるで昔使われていた「希望」という言葉のように「ふわっと」している?と思えば、ピアノの2ビートが鳴り響き、音楽が動き出す。あれ、今気づいたけどこれ一曲目と作りがすごく似ていないか?円環ってコト…⁉︎ただ、一曲目とは異なり、動きを作り出したのはなにより印象的な2ビート。これには市原先生の別の作品「朝焼けのスケッチ」の「1.凡庸」を思い出させた。ただ、あちらの描く「少し素敵で少し切ない、凡庸な日常」とは比べ物にならない切迫感から「荒れ果てた今の凡庸は、もはや凡庸ではないのだ」と言われているような、絶対に違う無駄な深読みをしちゃうね。
ビートに乗せてものすごい情報量のテキストがシラビックに駆け抜けていく。しかし、しっかり言葉は届いている。これは本当に凄いこと。語られるのは「わたし」の目の前に映る「今」や、希望を見出そうとする「未来」について。そして、音楽は次第に落ち着いていき、「あなた」と「わたし」の時間に。「今」は確かに辛いこともある。そしていつかは「わたし」や「あなた」にも、死は訪れるだろう。しかし、私たちはここにいる。ここで生き、眠る。

「次の星」ではなく「今」生きる「この星で」!!!👏

組曲のタイトルと共にに、王道に締めくくられました。いやあ本当に素晴らしい時間だった。

アンコールなどなど、お約束

 3ステージとも素晴らしかった!止まない拍手と感動に包まれながら、演奏会は閉幕に向かいます。アンコールとして歌われたのは

・夜のうた
・The impossible dream
・マイウェイ

 この3曲はOBにとってお約束のようなもの。これまでの定演は「夜のうた」のみでしたが、春の演奏会がなくなったことにより、定演が卒団演奏会となったことからも、他2曲も演奏されたのでしょう。直接アナウンスはありませんでしたが「夜のうた」で演奏会自体はおしまいで(暗転もするし)、そこから先は卒団演奏という構成だったのかな。
小久保先生指揮の「夜のうた」は、良い意味で「いつも通り」の優しさ。

おやすみ今日の日、おやすみ仲間

特にこの言葉とそれにつけられている歌はは本当に、言語化しきれない柔らかさがあって好きです。演奏会の間は、その場にいる皆が「仲間」だったのでしょう。
 そして明点してから大地くん指揮での「The impossible dream」が始まる。ミュージカル「ラ・マンチャの男」の壮大で情熱的な作品ですね。ただ、お約束を知らないお客さんからしたら少し「?」だったかな?とはいえ、タイトル通り「見果てぬ夢」を追い続けた姿をここまでのステージで見せてもらったからこその素晴らしさがありました。たしかこれは元々、当時の常任指揮者でありこの曲の編曲者である福永陽一郎氏が「混声合唱団でも日本の合唱団の頂点へ」という思いを込めたとかなんとか。福永陽一郎氏にしては本当に意志が強いというか、良い意味でしつこいというか…そういう編曲だなあと思いつつも、それだけの思いがこの団体にはあって、それが今も、形は違うとはいえ愛唱曲として残っているのはやっぱり感慨深い。
 そしてやっぱり最後は早川くん指揮による「マイウェイ」です。アカデミー合唱団の学生指揮者としての舞台では、早川くんの最後の指揮。本当にずるいのは、福永陽一郎氏による、この曲に訳詞なんです。

たがいに見てきた 青春の生きざま
嵐も恐れず 歩いたこの道
そこには いつでも 歌がある

こんなの泣く人多発ですよ、歌い手も聞き手も。本当は「訳詞」としては全然違う意味なんですが、この場合は最適解とも言えてしまうでしょう。言わずもがなこれも「彼らの言葉」として音楽が、思いが飛んできました。涙する姿まで含めて「舞台」として素晴らしいと感じられます。思えば私はこの曲を振るはずだったものの、新型コロナウイルスの影響でこの曲どころか最後の演奏会まで無くなってしまいました。一つ下の学指揮に関しては、春の演奏会が2回とも無くなってしまったため、この2曲ともすることができていない。同様に私の同期やその一つ下の代も、ボロボロに泣きながらこの言葉を歌い、送り出し、送り出される機会はなかったのでした。自意識過剰かもしれないんだけど、今回の演奏にはその2年が乗っかっているような、どこかにあった引っ掛かりが取れたような気もして、成仏できました()いや、まさか少しとはいえ泣いてしまうなんて。

終わりに

 色々書いてしまったけれど今回は本当に、音楽として言葉が伝えられてきた演奏会だったな。いわゆる「言葉を伝える」に寄りすぎず、あくまで聞こえてきたのは音楽だった。けれど、そこにはしっかり「自分達の言葉」があった。悔しいけれどこれは私の代ではやろうとしてもここまではできなかったことかもしれない。これは今回の演奏会が「今」を歌っているからこそであり、紆余曲折あったものの「今」舞台で歌えていたからでもあるだろう。ただなによりも、ここまでの数ヶ月、学年に によっては一、ニ年間によって培われた思い、それを原動力とした確かな向き合い方がされていたことが、この演奏会の成功に寄与したことは間違いなさそうだ。

素敵な時間、演奏をありがとう!!!!

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