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Dialogue with myself:退屈について

ある本に退屈の定義として、昨日と今日の違いがわからないこと、と書いてあった。
つまり、昨日と今日を分ける、出来事や事件が何もないことだと。

今ほとんどの時間を家で過ごしていて、
昨日と今日を分ける”なにか”とはなんだろうと思う。

もちろん、毎日テレビで流れる番組は変わるし、
SNSやインターネットで入ってくる情報も変わる。
私たちは日々大量の情報を浴びせられて、
ある種の耐性がついてしまっている。
情報に花瓶に反応しすぎない、という身の守り方が
染み付いてしまっている。
自分のに関わりのない情報や自分事出来ない情報に関しては、
目にも耳にも残らない。

また、人との関わりや外部との関わりが制限されることで、
時限性が大幅に失われた。

今、私の身の回りに残っているのは、
今日やっても、明日やっても、明後日やっても
何ら変わりのないことばかりだ。

今日やり終えた事は明日はやらないし、
そこから今日と明日の差は生まれるだろう。
ただ、生活のほとんどがいつでも出来ることに囲まれているなかで、
今日と明日を明確に分ける差分を見いだすのが難しい。

この生活には入る前の事を振り返ってみる。
少なくとも今よりは退屈でなかったはずだ。
私は何をもって、昨日と今日を分けていたんだろう。

外部からの刺激だ。

関わる人から影響を受けたり、誰かのアクションに反応したり、
また外部からの刺激をサービスとして受けていた。
つまり、昨日と今日を分ける要因のほとんどを
外部に頼ったり、アウトソースしていた。

外部との関わりが著しく制限された今、
外部リソースに頼ることで、差をつけていた今日と明日の違いが
全く見えなくなってしまった。
自分ではその差が産み出せない。

つまり、外部リソースに頼ることで、
感じないですんでいた退屈が自分の手元に戻ってきて、
自分の力で昨日と今日の差をつけなくてはいけなくなった。

今まで外部に頼っていたものを、急に返されても
どのように扱っていいのかわからない。
私のもとに残るのは、自分の人生は退屈なんだ、
そして、私は自分の昨日と今日に、自分で差分を作り出すことが
出来ないんだ、という虚しい気付きである。

毎日をリアクティブに生きて、
選択肢は不可抗力になるまで、
つまり選択の幅が自動的に狭まるまでまって、
プロアクティブに動いてこなかったことの弊害である。

現代の世界は、都合よく作り上げられた刺激に溢れている。
気づかないうちにそれに甘やかされた私たちは、
気付くことなく感覚を鈍化させていく。

ふと立ち止まって見てみると、自分が生きていたのは幻想のなかで、
与えられた場所で、足踏みをしていただけだ。
その場で足かせをして、足踏みしていただけなのに、
VRゴーグルで誰かが作った世界を見せられているから、
自分が冒険したような気になっている。

いざ、足かせとVRゴーグルをとられても、
自分の力で歩き出したこともなければ、
道を探しだしたこともない。
ただそこにたって、自分の非力を嘆くことしか出来ない。

こうして、自分の非力を嘆きながら、
時間だけをもて余す日々のなかにいて、
普段からわたしには見いだせない
自分が自分としていきる意味が
より霞んだ幻になっていく。

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