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Dialogue with myself:不安について

コロナが始まる前から、人生に漠然とした不安がある。
どうやって生きていけばいいのか、何を目指していけばいいのか
ずっとずっとわからない。

昔よりも色々なことに挑戦できるようにはなったと思うし、
思い悩むことも随分減った。

思い悩む前に飛び込む力はついたけど、
先の事を考えたり、物事についてよく考えるという習慣が
失われてしまったように思う。

何かしていないと不安だから、
ずっと何かやってはみるんだけど、
結局それって不安から目を逸らすためだけにやっているから、
いつまでも心の中のもやもやは消えない。
正しくはその瞬間は見ないで済むかもしれないけど、
結局はそれが解消されないままだから、
どこにもいけない、どん詰まり感がどこにもいってくれない。

少し話はずれるが、言葉とは記号、数字みたいなもので
現象を 具現化してくれると思う。
この文章がどこに向かっているか私には検討がつかないが、
自分の感じている漠然としたものを
記号化してみることで、少しでもを見えるものにできればと、
見えないものを見えるものにしてみるだけで
多少不安も少なくなるのではと思って
書いてみるだけ書いてみる。

働きはじめてからだろうか、
いつも「何者」かにならなくちゃ、という思いに
駆られている。
「何者」にもなれない自分には価値がないような。
だけど、自分でも「何者」が誰なのかわからない。
(そもそも「自分」が誰なのかも私にはわからない。)
漠然と「何者かにならなくちゃ」という思いだけがあって、
「何者」が何を指しているのかわからないから、
どこに向かっていけばいいのかもわからない。

ただ強い承認欲求だけがあって、
漠然と人に認められたい、と思っているらしい。
他人に認められたいけど、必死にはなりたくなくて、
必死にならずに何者かになれる何か
という全く正体不明のものを探すために
いろんなことに手を出すことによって
余計混乱を招いている気がする。

もちろんいろんなことに挑戦することによって
得られた視点や経験は自分が気づかないところで
血肉となっていると思う。(と言うかそう思いたい)

だけど結局のところ私がなりたいのは
「何者」か、つまり認められた存在であって、
いろんなところでいろんなことをやっていても
何者にはなれない。
だから、漠然とした不安が消えない。
これは不安というよりも
「何者」かになりたい、
という欲求が叶えられないことへの不満が
解消されないことへのもやもやということか。

なぜ必死になりたくないのか、
他人に努力を見せたくない
あの人はきっと生まれつきすごいんだ、と思われたい
というこれも不思議な欲求があるらしい。
振り返ってみると、学生の時も自分は勉強していたにも関わらず
毎回「全然やってない!」と周囲にはいい続けて、
自分だけそれなりの点数をとっていた。
やはり認められたい、という気持ち、
あとはバカにされたくないという気持ちが強いのだと思う。

自分のプライドの高さとも向き合わなければならない。
プライドが高い、とはバカにされたくないという気持ちの裏返しなんだと思う。
他人を下に見ることで、自分が相手より高い場所にいる錯覚を起こさせる。
そうすることで、自分のポジションが確立されて、安心できる。
自分で作り上げるただの偽ポスト。

バカにされたくない、認められたい、という気持ちはどこから来るのか。
これは生まれたときから持っているもの、元々の性質と言うことも
できると思うが、今までの経験から来ている部分もあると思う。

幼稚園や小学校と言われる場所に入って、
所謂「家庭」という場所を出て、
同じ年齢の他の「家庭」からやって来る人々と
一緒に行動することになる。
同じ年齢の違う個体が集められて、同じことをする。
同じことをするから、それに対する達成度が分かりやすく見える。
そこで比較が生まれる。人格や個性を無視した単純な比較だ。
これによって何がうまれるか。
出来る、出来ないが生まれる。
これは、社会的な範疇にも生まれる。
座学では知的能力として、実践では身体能力として、
生活では社会能力として。

学校でうまくやっていけない子達がどのような存在になるか。
自分にも他人にも「出来る」「出来ない」が明確化されて、
自分にとっての「自分」が惨めな存在に
他人にとっての「自分」がとるに足らない存在になる。

私にとっても小学校や中学校はあまり生きやすい時分ではなかった。
自分が惨めな存在に思えて仕方がなかった。
輪に入りたい、けど自分を捨てきれない、の間から抜け出せないで
どこの輪にも入れなかった。
必ず他にもそういう子達はいて、
たまに受け入れてくれる輪が何ヵ所かあって、
そこにいられるときは何となくの安心感があって、
いられないときは一人でいたり、
他の輪に入れなかった子と一緒にいたりした。

だけどそうしている間にも、他人の目は気になっていて、
「一人でいる自分」「輪に入れない子と一緒にいる自分」が
他人から見た時の自分になってしまったら
二度と輪のなかには戻れないかもしれない、という不安がいつもあった。

よく考えてみると、いまでもその不安をつれて歩いているような気がする。
他人の目を気にしているうちに疲れてしまって、
気になるから、必然的に一人行動が多くなった。
誰にも合わせなくていい、誰にも合わさせなくていいという
自由と安心感がそこにはある。
他人からの目が「あの人は群れない人」「一人行動の人」になれば、
輪に入れないから一人でいるんだ、と思われることを避けられる。
誰かと一緒に行動することが嫌いなのではない。
「輪に入れない子」の自分になりたくないから、
危機回避を目的として「一人行動の人」に自らなりにいく。

悪い面と良い面はいつも紙一重だ。
それによって得られたことも多くあった。
人と予定が合うまで待っていたらできなかったことも
たくさんできたし、そこから学べたことも多くあった。
少しずつ範囲を広げて、昔より初めてのところに
一人でいくハードルも低くなった。
一人行動が多すぎるのも考えものだが、
人に合わせなくていい以上に、
人に合わせさせなくていいという自由は何物にも変えがたい。

自分が思うことばかりをやって、
世界が狭まっていてしまうのもつまらない。
時には自分から巻き込まれにいって、
他人の世界も見てみたい。
そこに自分の世界に取り込めるものが落ちているかもしれないから。
自分にとってはつまらない、ということが分かれば
それはそれで視点が広がったといえると思う。

何者でもない自分が、何物にもなれない事を嘆いて、
誰に向けてでもない文章を書く。
結局何者になりたいかはわからないままだけど、
それを見つけるための旅を続けられたらいいかなという
心境にはなってる気がする。

誰にも向けてはいない散文だか、
どこかで誰かとの次のDialogueになることを祈って
この文章は結んでしまうことにする。

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