Dialogue with myself: 慰めと励ましについて

いつからそうなったのかはわからないが、
私は基本的に外にいることが好きみたいだ。
昔はあんなにずっと家にいても平気だったのに、
人間変わるものだな、と思ったりする。

私の人生は基本的には退屈なもので、
なにかエキサイティングなことに発展する可能性がある出来事に
巡り合ったとしても、面倒くささに打ち勝てないまま、
気晴らしで退屈を誤魔化してしまう。

そして、その気晴らしの対象となるものは
ほとんど家の外で行われていることだ。
ある意味、仕事もそうかもしれない。

となると、私にとってコロナ禍のこの現状は、
歓迎されるものではない。。。

仕事の方も、めっきりスローペースになってしまい、
日々ほぼ自動で与えられていたタスクも
与えられなくなってしまい、
能動的・受動的に受け取っていた気晴らしの類が
得にくい状況になってしまった。

やはりこういう時に強いのは、
自ら課題を設定し、ゴールまでを自分でドライブできる人たちだ。
というのは理解しつつも、何人も急には変われない。
人を急激に変化させることができるのは、強い不可抗力と悲劇だけだと思う。
そして、"自分”はどちらにも当てはまらない。

この状況を楽しめない自分がいる中で、ある人が下記のようなことを言った。
”95%の人はこの状況を楽しめないから、仕方がないんじゃない?"
(前提として、発言者は自分を5%の部類とみなしている)

発言者の意図を100%理解することはできないが、
私としてはこれを慰めと受け取った。

"ほかの人も、あなたと一緒だよ。落ち込まなくて大丈夫だよ"というメッセージだと。

慰めとして受け取ったのだが、どうも腑に落ちない。
この発言によって、私の感情が慰められることはなかったのだ。

もちろん、この95%と5%の二分化が、楽しめないというネガティブな大多数、と
楽しめるポジティブな少数派であって、
もちろんポジティブな方に帰属したいと思うことは自然だろう。

ただ、ふと思ったのは、昔から"輪にうまくは入れない、みんなと同じようにできない自分”にあんなに思い悩んで、
いまやっと"あなたもみんなと一緒ですよ”と認めてもらったにも関わらず、
なぜ一つも慰められた気持ちにならないんだろう、ということだ。

”みんなと同じになる"にあんなに憧れをもっていたのに、
いざそういわれてみると、何の慰めにもならないどころか
なんだか落ち込んでしまった。

誰に言われたかともかなり関係深い部分がありそうだが、
みんなと同じ=one of themという安心感、
よりも個体としての自分=only oneを認められたかったのだと思う。

そして、きっとここが"慰め”と"励まし"の違いなんだろうと
浅い頭で考えた。

慰めと励まし、どちらも欲しいのは"大丈夫”感だと思う。
(なんか大喜利みたいになってきた)
慰めが必要としているのは、
one of themの大丈夫感、あなただけじゃないよ、の安心感。
励ましが必要としているのは
only oneの大丈夫感、個を認められた上でのあなた"なら"の安心感。

人間の大体の反応がそうであるように、
求めていたものに対して、違うものを渡されたら、
何かしらの拒否反応が起こる。
拒否反応の表れ方が外層的(その人への反応として)なのか
内層的(自分の中に違和感として)なのかは個人差があるとしても、
拒否反応は共通して起こる。

今回の私の場合は、
”慰め"に対して、自分が内層的な拒否反応を起こしたことから、
自分が"励まし"を欲していたことが分かった。

外的世界から渡されるものが
自分の欲求に沿っていることは多くはない。
自分の欲求を正しく理解していれば、
それに近いものを外的世界から選び取ることはできる。
ただ、私たちは無意識にリアクティブに生きているので、
提示されたものに対して、反応する形でしか
自分の欲求の確認ができない。
(ここでさらにプロアクティブに動ける人たちの差がついてしまうのだが、、、)

前述の通り、わたしは人は生まれ持った性質があるし、
自分を含めた大多数の人にとって、
それを自分の意志だけで急激に変えるのはかなり難しいとおもう。

リアクティブにしか生きていけない自分のような人間にとっては、
提示されたものに対する反応や違和感をそのままにせずに、
少し目を向けてみることで、
自分が何を欲していたか、何が違っていたのかを知る
手篝にはなりそうだ。

誰のためにもならない、何の問題も解決できない非生産的な文章。
今の社会の見方だと本当に意味がないが、
人間の非生産的な部分や非合理的な部分に生きていく意味の欠片が
紛れていると信じたい。。。
(こうしてまた自分をだましているのかな?)

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