広至11~包摂のドラマ「タイガー&ドラゴン」

「タイガー&ドラゴン」がTVerで公開されている。
05年に放送されたこのドラマの後、NHKの連続テレビ小説「ちりとてちん」や(原作小説の刊行は97年だが)映画「しゃべれども しゃべれども」、漫画からアニメ、実写ドラマにまでなった「昭和元禄落語心中」など落語をテーマにしたフィクションが増えた。
付け加えれば、ジャニーズの2人を竜虎に据えたこのドラマの影響で、落語や寄席そのものへの注目度も高めた記念碑的作品だ。
スペシャル版では「三枚起請」という前座ネタではないはずの技巧的な廓話から始まり、連続ドラマの初回はこれまた大ネタの人情話「芝浜」が取り上げて、脚本の宮藤官九郎も好きだという豊穣な落語の世界に一気に見る者を連れていく構成になっている。

このドラマは複雑な世界観のもとに描かれているからこそ、一話完結で形式に約束事が多く、クドカンの世界に一度入れば、その物語の力は深く心へ浸透する作品といえるだろう。
主役は、話ベタでつまらなく、人を笑わせられたことのない借金取り立てを生業にするヤクザである山崎虎児(演:長瀬智也)と、裏原宿でアパレルショップを営みながら、面白いことを求める元天才落語家の谷中竜二(岡田准一)の2人。
さながら「竜虎相搏つ」様相で、古典落語のストーリーと"似たようなこと"が現代で起きてしまい、その"実際にあった話"を高座で活き活きと語り上げて落語にしてしまう、という破天荒な作品だ。
劇中劇として古典落語の想定する江戸時代"風"のユーモラスなシーンがふんだんに盛り込まれて、想像の世界と現実を行ったり来たりするのも特徴的になっている。
主演の2人が落語やヤクザ稼業に自分の人生を投影しながら強烈に交わっていく以外にも、西田敏行が客を睥睨して高座の場を完全に掌握してしまう大師匠や落語の中のシーンでは女装して器量の悪いお内儀さんに扮装したり、八面六臂の活躍は抱腹絶倒。
更に、ヤクザを演じる(本業は落語家である)笑福亭鶴瓶や感情の起伏が激しいショップ店員で濃厚に畳みかける蒼井優などその魅力は多岐にわたる。

中でも私が好きな回は、ドラマの中で中盤の最後を飾る重要な「出来心」の回だ。
全話の構成でいえば、スペシャル版の「三枚起請」から「芝浜」、「饅頭怖い」、「茶の湯」と虎児が前座時代に、家族の関係をどん兵衛達と築きながら、人を笑わせて自分も笑うことを取り戻していき、竜二は虎児を導きながら知らず知らずの内に落語へ関わっていく前半。
虎児が二つ目に昇進して、「権助提灯」や「厩火事」、「明烏」、「猫の皿」と寄席に集まる落語家以外も含めた芸人など多様な人々と触れ合い、虎児がヤクザ以外の社会を知っていき、竜二も過去と向き合い始めて落語への自分の思いを再度問い始める中盤。
終盤は、虎児はヤクザ稼業の暗い現実が追い立ててきて噺家としてどうケリをつけるか問われて、竜二は落語家へと戻る道を歩み出し、虎児に導かれて自身の落語へ向き合う姿勢を再確認して真打ちへ、と3つのパートに分けることができる。
その中で「出来心」は、それぞれの心にある弱さと強さ、諦めや悔い、夢や希望の全てが混ざり合い、殴り込みの暴力も、立ち上がろうとする若者の焦燥感も、古典落語の世界の笑えてしまう盗人の愚かしさも、包摂して笑いに変えてしまう後ろくらい部分も不可欠だった興業そのもの、中でも江戸期より発展する庶民文化の寄席、落語、そしてそういったものがテレビで放送することを主とするドラマになった大衆文化の集大成のような回だ。

成馬零一氏の評論は、日本のテレビドラマ史における脚本家・宮藤官九郎や演出家・堤幸彦の位置づけなどを語った興味深い連作エッセイだ。
その中で、「タイガー&ドラゴン」はこのように語られている。

さながら「落語ミステリー」とでも言うような本作だが、現実の生き物である“虎”と想像上の生き物である“竜”という対比は虎児と竜二の対比だけでなく、現実と落語、あるいは現実と虚構の関係になっている。
こういった虚実の相関関係、虚構の世界のキャラクターを演じることで現実の問題を乗り越えていくという物語は、宮藤が得意とするものである。

"ヤクザ"、"現実"、"金銭問題"といったテーマは地を駆ける"虎"である虎児(や銀次郎らヤクザ仲間)が背負い、"落語"、"夢"、"笑い"といったテーマは想像上の生き物である"竜"である竜二(や師匠のどん兵衛達)が引き受けているということが見立てになっており、その竜虎の世界は分かれているからこそ、現実には離別せざるを得ない価値観だ、ということになろう。
しかし、私は少し違う解釈をしている。
宮藤官九郎の本質は、これらの雑多な要素の混ざり合いを是として、包摂しようとする営みを続けているように思えてならない。
彼の作品になぞらえていうならば、「タイガー&ドラゴン」は、複雑な構成を伝えるために「落語」という分かりやすい触媒を使い、それ以前に視聴率は振るわなかったが名作として語られる「マンハッタン・ラブストーリー」の順々に巡る・逆転するといった現象の複雑さを乗り越えた。
交流する軸となる『何か』を用いれば、荒唐無稽で繋がりにくい(というか繋げてはいけない)現代のヤクザと笑いすら繋げることができ、現実に興業と暴力そのものがかつては近しかった聖俗が渾然一体となった社会を描写したともいえるのではないだろうか。
10話の「品川心中」では、虎児はヤクザと噺家の矛盾を解決できず、クライマックスで破綻を迎える。
しかし、8話「出来心」では、噺家として、ヤクザとして、両方のスジをその瞬間は通してしまう奇跡を見せる。
同時に、頑固な噺家だった西田敏行演じるどん兵衛は、寄席で偽物のフランス語シャンソンを歌い、昔気質な笑福亭鶴瓶演じるヤクザの組長は、枕の小話で高座で弾けるような笑いを取る。
小さな「出来心」をとっかかりに、多様な人や価値観の奇跡的な融合がそこに表出するのだ。
8話の終わりに、竜二は茶化してこう語る。

竜二「面白かったッスよ。歌ありヤクザあり暴力ありのサーカスみたいで」

直情的に虎児が凄むと、最も好きな落語から離れて複雑な本音を抱える竜二は、割と素直に吐露する。

竜二「随分見ねえ間に寄席も変わったなぁと思ってさ。(中略)まぁ、あんな寄席だったらね、出ても良いかなぁと思いましたよ。」

虎児と竜二は交流してぶつかり合い、それぞれの人生の隘路を、落語を媒介にして乗り越えた瞬間的なクライマックスがここに訪れたのだ。
先程の成馬氏の評論では、2人の混ざり合いをこう語っている。

この対比はそのまま虎と竜の対比でもある。虎児が面白くない具体的な会話しかできなかったのは、彼が「虎」という暴力に満ちた現実の世界の住人だったからだ。
対してどん兵衛や竜二は「竜」という虚構の世界を生きており、この一見非合理で無駄なものの集合体である虚構の世界が虎児をどう救うのかが、本作のみどころだが、この虎と竜の対比はそのまま、長瀬智也と岡田准一という本作の二大看板俳優の対比にもなっている。

この後、器用さの裏に繊細な心のありようが窺える竜二は、再び落語家に戻り、それまで抱えていなかったプライベートな苦しみとも向き合いながら、噺家としての修練を積む。
一方、虎児は、選択肢の乏しいと思ってきた己の人生そのものと対峙する。
破綻が第10話「品川心中」の語られることのない後半部分の暗部に象徴され、歪な現実を抱えながら包摂して進む姿が、最終話「子は鎹」で描かれる。
成馬氏とは異なり、私は宮藤官九郎が自身の墓標としてこの希望を刻んだものではないと信じている、
だから、15年以上が経ってまた、中年となった長瀬智也と動きが鈍くなった老年の西田敏行で親子を描くのではないだろうか。
「タイガー&ドラゴン」の最終話の後、恐らくどん兵衛以下の面々は、元ヤクザ者を抱え込むことで落語界の立場は芳しくなくなった可能性が高い。
それでも、各々の道を信じた結果、再び息子が父の元に帰ってくる話を綴れるのではないだろうか。
ちょっと15年前のドラマで感傷に浸りたくなった今だからこそ、「俺の家の話」が楽しみになってくる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?