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うつを乗り越えるまでの話①

中学校

中学校では運動もあまりできず、勉強も理数国以外イマイチだった。
そのくせ、目立ちたい気持ちはあり、クラス委員長をしたり、高いところに勝手に登って遊んだりしていた。
そんな僕を見るクラスメートの目はちょっと変なやつくらいのもので、別に何があるわけでもない。

そんな僕の家にインターネットが来た。
学校ではちょっと変なやつでも楽しいやつとして受け入れてくれるインターネットは自分が自分でいられる場所のような気がした。
学校でしても楽しくないような他愛もない会話もめちゃくちゃ楽しかった。
打ち込んだ言葉が返ってくることそのものに胸を踊らせていたのだろう。
そこにいる子たちの環境は様々で、田植えの話もすれば、漫画アニメのお店がそばにあるような都会っ子もいた。スポーツマンも読書家もみんな横並びだった。
それもとっても心地よくて、随分とパソコンでチャットばかりしていた。
そしてそこで初めて、心の疲れた友人たちに出会った。

心の疲れた友人たちは自分が聞いたこともないような境遇だったり、色んな形のいじめを受けたり、とても胸が痛くなった。
そこで初めて誰か辛い人の役に立ちたいと考え始めたんだと思う。
その人達が必死で伸ばす手を掴んでいくことで、当時の自分はとても価値のある人間のように感じられた。

高校生

変わらずクラス委員長。インターネットを通じないで関わる女子が苦手で男子校への進学だった。
科目限定で受けられる理数系のクラスに進んだことで交友関係は少し変わり、平均的に落ち着いた雰囲気になった。
理系クラスのイメージにそぐわないスポーツ特待レベルの子がいたり、ごりごりのヤンキーがいたりしたが、全員何かしらのオタクだったため非常に平和な雰囲気だった。
インターネットの方も多少環境が変わって、チャットで出会った人と携帯のメールや電話でやり取りをするようになっていた。
その頃から自分の周りに心の疲れた人を集めるような関わり方が始まっていた。
普通の高校生という年齢はモテたいという気持ちをどの方向に向けるかが生活のベースになるだろう。
今振り返ると、僕の場合はそれが疲れた女子の話を聞いて、依存してもらう事でモテに近い状況を作る事だったのだと今になって思う。
クソみたいな話だ。けども当時それはそれは必死だった。大学のある駅で降りて、古本の心理学の教科書を買ったり、精神医学や、心理学のブックマークがどんどん増えていった。
それと同時に私の電話は24時間関係なく、辛い内容の電話が飛んでくるようになっていった。
高校の終わり頃には色んな事情はあったが、学校を休んだり、遅れていったり、行ってもほとんど寝ているような日が増えて単位もギリギリだったようだ。
ただ一日8コマの特進コースだったので、勉強はあまりしていなかったが、直前に文転し、なんとか精神福祉の学部に受かって通うことになった。

大学生

大学にはなんとか受かり、友達も一応できたものの、自由な時間はほとんど電話を受けているような生活をしていた。
ほとんど昼夜逆転し、昼間は起きていられないようになり、大学へもどんどん足が遠のいっていった。

誰かを助ける人っていうのは、その誰かから見て完全無欠でなければいけない。
その自分を電話口で維持し続ける事に限界を迎え、電話に出ていない時間は突然泣き出したり、頭が全然働かないようになり、家ではほとんど寝ているか、無心でRPGをしているだけになっていった。
母が心配して、心療内科に行き、そこで初めてうつの診断を受けた。

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自分の初期衝動の整理のために、自分がうつになるまでの流れを簡単にまとめました。
うつからの復帰についても次に書いていこうと思います。

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