大河ドラマの「違うけど~っぽい」リアリティ
大河ドラマ「光る君へ」を何だかんだで毎回見ている。
見ていて「平安時代っぽい」と思うので、製作陣の力の入れ方が伝わる。
けれどもわたしは性格が捻くれていて、台詞に教養が足りないなと思うときがある。佐々木蔵之介演ずる藤原宣孝みたいなキャラは別に気にならない。佐々木蔵之介かっこいいし。
ドラマの都合でくだけた言葉遣いにする場面もあるだろう。それに平安時代だって品のないことを言う「上流階級」の人もいただろう。(大鏡にある素腹の后のエピソードとかは酷い。)
それでもやはり平安時代の「上流階級」的教養の描写が少ないので、わたしはモヤモヤしている。
源氏物語の一場面と比べてみたい。賢木の巻では、桐壺院が世を去り、右大臣が朱雀帝の外戚として権勢をふるう。朱雀帝は光源氏の兄だが性格が柔和すぎる。右大臣一派は朱雀帝を脅かしそうな光源氏を警戒している。
政争の気配が漂う中、光源氏が挑発される場面に漢文が登場する。
朱雀帝の女御の兄(か弟)にあたる頭弁は、右大臣の一族。その頭弁が「白虹貫日、太子畏之」という一節をおもむろに朗詠して、そばを通る光源氏に聞かせる。
出典は、漢の時代に鄒陽という人が梁王へ獄中から上表した書。史記や漢書の列伝のほか、文選でも読める。この一節は、燕の太子丹が刺客の荊軻を放って秦の王政の暗殺を企てた話を踏まえる。
遠回しなようで面と向かった光源氏への挑発に、漢文が効いている。むしろ漢文の知識なしには挑発の中身が分からない。漢文は平安時代の教養(というか才)の根幹だった。
「光る君へ」のシリアスな場面には、こういう要素が今のところない。ドラマの描写として漢文は枝葉の扱いなので、わたしの(過度な)期待は裏切られつづけている。
という具合に、ドラマの平安時代らしさについてモヤモヤしていたのだけれど、昨日ふと気がついた。「このモヤモヤは製作陣が狙ったものじゃないか?」と。
「光る君へ」のリアリティはあえて平安時代らしさを薄めて作られている。そう考えだすと色々合点がいく。
最近なら新楽府の巻物がいい例だ。
作り込まれた巻物の小道具には、平安時代っぽい雰囲気がある。
けれども、小道具の制作には鎌倉時代の写本を参考にしたようだ。平安時代後期の古い写本の複製写真(白黒)と見比べると、違いは歴然だ。
だから返点の形式が時代に合わない。具体的にどう合わないのかは前にも書いたので割愛。(気になる方は末尾のリンクの記事をお読みください。)
さらに小道具の訓点はまひろによる以下の訓読と整合しない。
古い写本では「高き者必ずしも賢ならず、下き者必ずしも愚ならず」などと読んだらしい。
という具合に、重箱の隅はいくらでも突ける。けれども、それは製作陣が用意した罠に嵌められただけなんじゃないか。
ドラマのリアリティというのは「違うけど~っぽい」のが大事なのかもしれない。「それらしさ」の中に、あえて「それらしくなさ」を散りばめるのがドラマ的リアリティということだろう。
わたしのドラマ鑑賞力は、一つ上のステージに進んだのかもしれない。
※前に書いた記事です。
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