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対岸の彼女/角田光代

「対岸の彼女」という1冊の小説に出会った。

「結婚する、しない。子供がいる、いない。それだけで女どうし、なぜ分かりあえなくなるのだろう。」

桃色の帯に書いてあった、この言葉。
私は引き寄せられるように、気が付けば、この本を手にしていた。

この本の主人公は、内気で他者との関わりを避けるような性格の専業主婦、小夜子。そんな彼女が一念発起し、とある会社の面接に赴くことで物語は始まっていく。小夜子が面接で出会ったベンチャー企業の女社長、葵。性格は陽気でざっくばらん、常に笑いの渦の中心にいるような女性だった。年齢も、出身大学も同じ2人の仲は一気に深まり、小夜子は葵の下で働くことになる。


単調な生活、狭い世界の中で、必死にもがいている小夜子。結婚せずに、自分の思うままに事業を展開していく葵。まさしく“対岸”にいるような2人の現在、そして葵の過去が複雑に絡まり合いながら、この物語は進んでいく。

高校時代、私たちは
その瞬間を、直ぐ次の瞬間へ
投げ出すように生きて
きっと目に見えている世界が
本当にこの世界の全てだという錯覚の中にいたような気がする

高校時代の葵は切ない。
彼女の過去を覗くと、そこには今の姿からは想像出来ない、内気で弱々しい、葵の姿があるのだった。脆くて、危なっかしく、時に小賢しい。殺伐とした高校生活の中で保っていた、なけなしの純真。そして、息の詰まるような日常から抜け出そうと葵の手を引いた、魚子(ナナコ)の存在。ある日を契機に、彼女たちは本当に日常からはみ出してしまう。恋人同士が駆け落ちするかのように、自分たちだけの世界に行こうと、躍起になってしまう。

私には、物語の登場人物のように、大層な過去も、事件もないけれど、葵とナナコの2人に、心を重ねずには居られなかった。

くだらないことで腹がよじれるほど大笑いし、小さな絶望に一緒に泣いた。死にそうな顔をした私のことを、笑い飛ばしてくれた。大人になっても、ずっとこの感じが続いていって、きっと約束した世界一周旅行にも出掛けるだろうね。結婚式には友人代表の言葉を読むね。絶対、泣いちゃうなぁ。
なんて話していた友人が、私にもいる。

私にとって、高校時代の思い出は、透き通るほどに綺麗で、忘れがたいものである。

高校2年、沖縄の修学旅行から帰ってきた後
“この出来事を貴女達が大人になった時に、思い出して。力になるのよ。”
と担任が言っていた。
当時はしっくりこなかったが、今では分かるような気がする。


誰よりも近くに居たのに、お互いの環境が変わり、心の距離がスッと遠くなってしまった人たちがいる。決してどちらが悪いでもない。お互いが違うフェーズに進んだだけ、それも分かっている。


分かっているが、寂しい。

「変わらないことがあるとすれば、皆変わっていくことじゃないかな」
と誰かが言っていた。
それを飲み込むことは、想像していた何倍も、私にとっては時間のかかることであった。

私も変わっていく分、大切な、大切だった人たちも変わっていく。
私だけが、思い出の中に独り取り残されてしまったように、色々なものが徐々に離れていった現実を、直視出来ないでいた。


人と出会うということは、自分の中にその人にしか埋められない鋳型を穿つようなことだと思っていた。人と出会えば出会うだけ、だから自分は穴だらけになっていくのだ、と。


森絵都さんによる解説にあった、この言葉。
この言葉がずっと私の心にこびりついている。

いつの間にか、私も穴だらけになっていたのかもしれない。
親密な関係の終了と同時に、すっぽりと中身を失い、私の心には人型の空洞が残る。いつの間にか、誰かと深く関わること、自分が誰かに依存してしまうことを、ひどく恐れていた。空洞と共に残る虚しさを、これ以上増やしてしまいたくはなかった。自分の内部に、すっぽりと何かを受け入れることに、臆病になってた。


「あのね、銀よりプラチナが強いんだって。だからあたし、ナナコにプラチナのリングをプレゼントする。そうすれば、銀よりずっと、幸せになれる」

「じゃあ、あたしもアオちんにプラチナのリングを贈ることにする」


果たすことの出来ない約束であろうと知りながら、お互いの未来を必死に照らそうと交わした、葵とナナコの約束。

高校を出た葵は、二度とナナコに再開することはなかった。それでも、約束を交わした、あの儚い情景は、葵の足下を照らし続けている。
葵が立ち上げた会社の名前は、「プラチナ・プラネット」といった。

けれどもその穴は、もしかしたら私の熱線であるのかもしれない。時に仄かに発光し、時に発熱し、いつも内側から私をあたためてくれる得難い空洞なのかもしれない。


綺麗すぎる沢山の思い出がある。
その思い出と共に蘇る表情、声、仕草がある。
昨日のことのように、昨日の出来事よりも鮮明に、思い出される。

卒業式、好きな人にお手紙を渡したこと
僕も、ずっと好きだった
と、電話で伝えてくれたこと

高校の友人と、青空通路で笑い転げたこと
デパートの屋上で、一緒に泣いてくれたこと

国語の授業のあとの廊下に落ちていた
“爆弾”の檸檬
舞姫の最終章を読むあの先生の声が
震えていたこと


思い出が、現実よりも身近に感じられてしまって、それが辛かった。
私を好きだと言ってくれた、あの男の子も。小さい絶望に、一緒に泣いてくれた、あの友人も。「涙が出てしまうのは、あなたが優しいから、大切にしなさい」と突然声をかけてくれた、あの先生も。

その瞬間は、もう二度と私の前に現れてくれないし、鬱陶しいほど近くに居るのが心地よかったあの人たちも、当時と同じ顔で私に対峙してくれることはないのだろう。

ふとした瞬間に思い出して、もう戻れないという、当たり前の事実に足が竦んで、涙が零れてしまうことがある。

それでも、私は竦んだ足を温めて、進まなければならない。私の足を竦ませるものの正体が、人型の空洞であるならば、温めてくれるのもまた、人型の空洞であると、この小説を通して気が付くことが出来た。

綺麗すぎる思い出の中にいる、沢山の人たち。私には、確かに彼ら形をした鋳型が穿たれている。風が吹くと痛むその空洞も、時に、じんわりと私を温めてくれる、得難い光を放っている。そして私の口元を緩ませる。その光をそっと、大切に守りたい。光に変わると思えば、臆病な気持ちも一掃できるような、そんな気がする。

色々なものが変わっていったかもしれない。それでも、あのときの私の感情は、正しかったのだと肯定したい。人型の鋳型を穿ち続けて、穴だらけの人間になりたい。すっぽりと穴を開けられるくらい、厚みのある心を持ちたい。私は私の全てを引き連れて、ゆっくりと進んでいけたら良いと思う。

空洞が放つ明かりが、きっと、すぐ足下を照らしてくれると信じながら。



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