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100万円をラブライブに捧げ、去っていったオタク。

※これはわたし個人のオタク活動の悔悟録です。自分で書いといてなんですが自己中きもいです。

ひとことで:いちラブライバー(わたし)が社会人になって課金したりSNS始めたりしたけど最終的に拗らせて嫌になってオタクを辞めたはなし。

8月16日

 2020年3月。卒論を提出し終えてアルバイトで小銭を稼いでいた大学生活も終わりの終わり。初めてソシャゲのガチャで天井した。スクスタの、鞠莉と彼方が追加されたフェス。バイト代をつぎ込んで240連目で苦しくも鞠莉を引きあげ、天井で彼方を交換した。あの身銭を水泡に変えた瞬間の震えは忘れられない。大学2回生の時バイト代で20万円の楽器を買ったこととも、就活中ウン十社と落選し苦心の末に内定をもらった時の達成感などとも、少し違う。わたし自身が花火になったかのような、そんな感覚。

 ただそれは、いま大きな後悔として帰ってきた。

 わたしのTwitterのラブライブ垢のTLが阿鼻叫喚となった。(わからない人は「ラブライブ 文春」とかで調べてください。)昨年秋のストーリー20章騒動では私のTL上にいたラブライバーの人たちはまるで箝口令をしかれたか、役満を張ったかのように意味深な沈黙を貫いていたのに。(単純にフォローしている人がこの9か月で増えたから、いろんなツイートが目に入ったのだけなのかもしれない。) 悲しむ人、嘲笑する人、それらを非難する人、いさめる人、などなど。

 わたしはそのTLを眺めていた時、突然脳に嫌な液体をスプレーでかけられたようなぞわぞわした、不快で身の毛のよだつ感触を味わった。そして、突如として"ブルジョワジー"の家に侵入した紅衛兵のように部屋中のラブライブ!グッズを蹂躙し、ロシアのおばあちゃんが見れば「Боже!(神よ!)」と叫び出しかねない形相でスクフェスとスクスタをアンインストールし始めた。

 わたしは(少なくとも理性の上では)演者さんとキャラクターは別の存在だと考えている。どんなに演出家さんたちが頭をひねり、どんなに演者さんがわたしたちにあたかもそのキャラクターが目の前に現れたと思わせようとしてくれていても。やっぱり違うと思う。

 わたし自身は今まで「二次元しか勝たんw」なんてのたまっていて、6畳6万円のマッチ箱のような部屋にはキャラクターの巨大なタペストリーが飾られていて、わたしは毎朝仏壇でお経をとなえていた今は認知症で何もわからなくなった祖母よろしくタペストリーを神棚のごとくに毎朝崇めていた。(というよりは'聖画'といった方が正確かも)

 私にとって二次元の彼女らは生活の規範となり、「彼女らみたいに日々努力しないと」と思っていたし、わたしを前へと導く自由の女神のような存在とも思っていたし、そしてさらには理想の女性で仮想恋愛の相手と思っていたと言って間違いないと思う。

 わたしは普段有名人の誰かと誰かが交際してる、とか結婚した、とか聞いても普通の反応をする。例えばわたしは麻雀の放送対局をよく見るけれど、白鳥さんと岡田さんの交際が表立ったときも、魚谷さんが結婚を報告された時も、普通の感覚で「お幸せに~😊」と思っていた。(ちなみに私は白鳥翔さんが大好きです。)

 なのに、今回は突然どす黒い感情に襲われた。何に対してかわからないけど、憎しみに近い気持ち。本当に、感情がわたしの理性に馬乗りになって鼻が折れるまで殴ってきた瞬間は、理性が負の感情にKOされる瞬間は生まれて初めてだった。

 なぜ? 実はわたしは救いようのない声優オタクだったの? どうして? 推しキャラのキャストさんが渦中の人だから?

 わたしの頭のなかはまるで「ロミオとジュリエット」の諍いの一幕のようにがんがんと鳴り響いていた。そして、ふと「スクスタ」を点けて彼女らの声を耳に入れると、突然鳥肌が立ち始めた。今まであれだけわたしを鼓舞し、癒してきた声に。そして、だしぬけに部屋中のグッズというグッズをを捨てはじめ、アプリをアンストするに至った。

 おそらく本件の根本原因を教えなさいと言われても、今のわたしは「わかりません」とつっけんどんに言うだろう。それどころか私の感情の暴走のトリガーとなった直接的要因すらも一意に特定できてない。私の精神のサービス品質低下も甚だしい。SLA水準も満たせていないし、これでは顧客にいろいろ言われてしまう。

 こうして、わたしのなぜなぜ分析が始まった。


わたしが拗らせラブライバーになるまで

 以下は、ただでさえ偏屈なわたしがラブライブを通してどうやって頭をおかしくしていったか、ひと言でいえば、よくある、オタク界隈のSNS(Twitter疲れ)です。読むに値しなければここでおやめになって大丈夫です。面白くないです。ここまで見てくれて、ありがとうございました。

 ただ、その前兆といえるものは、確かにあった。一連のゴシップ関連の話は、直接原因の一部に過ぎない。

 2020年7月くらい。上京就職した後の初期費用の清算もすんで、ようやく自由に使えるお金ができてきたころ。ようやく"なんでもできる"フェス鞠莉のひらめきを同作戦+中4つにに染めたころ。スクスタ界隈でつるむためのアカウントを作って、「#スクスタフレンド募集」とか言って回っていた。幸いにして少しずつフレンドができ、Mirrativで知り合った人の配信を見て回ったりしていた。学生時代に友人や先輩たちと「デレステ」や「駅メモ」の相互フレンドになったりしてたけど、今までこんなにゲームについてたくさん話をすることはなかった。このころは純粋に「楽しい」と思ってプレイしていた。

 2020年9月。そんなことを言いながら、イベントでポイントランキング2桁順位を獲ったり、薄給の1年目社会人ながら、そこそこに課金の喜びを味わっていた。そこそこに周囲のユーザと楽しんでいて。たぶん、いちばん楽しかった時期なんじゃないかと思う。

 2020年秋。アニメが始まったり、スクスタのストーリーが荒れたりなんだり、いろいろ話題が生まれていたような気がする。この頃のわたしのTLは比較的リテラシーのあるまともな人が多かったので、TLは静かだった。けれども、Mirrativ配信に行くとそれぞれ胸に抱えるところのあるを持ったフレンドさんたちで喧々諤々と話が繰り広げられていた。

 思えばこの頃からおかしくなり始めていたかもしれない。わたしは当時のラブライブのアニメやストーリーを「世界観、思ってたんとちゃうやんけ...。」と感じていた。わたしにアレクセイ君のような弟はいないので、ここで「大審問官」を展開したりはしないけど。少なくともアニメについてTL上には好意的な人が多かったと思う。

 「(ある出来事に対する印象なんて)人それぞれなんだよなあ」ってこの前耳にした。まったくもってその通りだと、私の理性もわかっている。

 ただ。わたしは、TLを眺めて自らの考えと合わない考えのラブライバーさんのツイートから意識的に目をそむけるようになった。そして、その事実が逆に私のこころにのしかかってくるようになった。きっと始めたばかりのころは純粋に周囲と考えを共有できることが楽しかっただけなのに、それができなくなったことが辛かったのだろうか。もともと自身の思いや考えの同期先となっていたTL(上のフレンドさんたち)と断絶感を感じるようになっていった。そして、その事実が重く、苦々しく感じられた。この時点で、わたしはすでに捨て垢で誹謗中傷を繰りかえす人と、内面はそう変わっていなかったのかもしれない。

 2021年に入ったあたり。このころから、わたしはいわゆる「マイオナ※」に近いことを始めた。誰かを傷つける発言かもしれなくて非常に申し訳ないけれど、私のやったことは少なからずこの概念と近いと思う。スクスタは強い手札で高いスコアを出すのがメジャーな遊び方の1つだろうし、そう思っていたけど、わたしは弱かろうがお構いなしに推しのカードだけを育成し始めた。

 ※「マイオナ」・・・対人ゲームで敢えて「マイナー」とされているキャラを使い、嗜好を満たす行為(「ピクシブ百科事典」より一部引用)

 もちろん最初は楽しかったし、「キズナポイント」という各キャラのプレイ量に応じて累積する値をカンストさせたときはなんか謎の達成感があった。「ほかのプレイヤーがやっていないことをたくさんのお金や時間を費やしてやってやった」という気持ちは、「マイオナ」というあいまいな概念の普遍的な部分が包含するところだったのではなかろうか。

 これが地獄行き特急券だったような気がする。少なくともわたしは持ってる手札を最大限に生かしてスコアを出していくのがこのゲームの遊び方だろうと思っていたわたしにとっては、ゲームの放棄に等しい行為だった。日々進化していく最適な手組みからだんだん遠ざかっていく。かの一流企業の社長も「スクスタは勝てば面白く、負ければ面白くない」と言っていた。わたしの心の根本にもそうした思いがあった以上、敗退待ったなしだったのだ。

 もちろんわたしのやり方を「やってんなw」と反応してくれる人もいたけど、結局のところわたしはゲームを放棄したことが引っかかってしまった。TLで試行錯誤しながら見事な手を組み上げる人を羨ましく思っていたのだろう。

 「わたしらしくあろうとして、孤立していく」

  「他人と違う俺カッケーσ(゚∀゚ )オレ」というのは、わたし含め、ひねくれ者の十八番だろう。でもそれを成し遂げるのは簡単じゃない。普通と違うものさしで自分を測ってもらうことは難しい。自己満足のためだけに、周囲の流れに逆らい修行僧のようにゲームをプレイする。そこに内面的な充実があるなら構わない。でも、承認欲求のために『マイオナ』をする先には何か残るのだろうか。わたしにはわからない。その孤独を昇華したものが、きっと「○○らしい」と言うに値する者になるのだろうか。わたしにはわからない。

  2021年5月。GWはTLがライブに色めき立っていた。元々配信で観るつもりだったのだが、なぜか心がぐちゃぐちゃになっていた。結局配信を見ることもなく、GWはずっと『カラマーゾフの兄弟』を読んでいた気がする。たぶん、いろいろなものが羨ましかったのだろう。「ハレ」の日を、たくさんの人の思いが結集したイベントを。もしかしたら『わたしはおとなしく引きこもってるのに...!』というこの時勢特有の思いなのかもしれない。とにかく頭の中がぐちゃぐちゃだった。周りが疎ましかった。

 もうこの時点で「潮時」だったのだろう。といっても、5月から今までに至る3か月は仕事が多忙を極め、孤独をかこつ暇もなくなんだかんだ気分転換としてスクスタを遊んでいた。残業代がたくさん入り、今まで以上にハイペースで散財したと思う(グッズとか課金とかで月10万円くらい?)。もちろんそれは孤独の薬にはならない。ひいひい言って稼いだお金を泡に返す、もはや自傷行為のようなものな気がする。

二次元推しオタクはなにを思う

 けっきょく、あの報道を見て、私はなんで独りよがりに脳をぐちゃぐちゃにしたのだろうか。わたしの心中の過去ログを漁った結果、それは「孤独の対極を見せつけられたから」といった感じなのだと思う。つまり、わたしがその「二次元の推し」の存在を借りて創り上げていたまさに楽園的な世界に、「二次元の推し」の一部として認識していた部分が突然「孤独の対極」という現実に変身し、それがぬっと入り込んできた。そして、そのキャラクターの声が突然サタンのいななきとなったのだ。(わたしもあまり意味を解らず言っている。要するに、キャラクターボイスを聴いて身の毛がよだつようになった、ということです。)

「二次元キャラだけが好きです!」という人は多数いるけれど、その演者とキャラを切り離すのは意外と難しい。もっとも、それはおのおのにとって「二次元の中の推し」がどういう存在かを明確化せねば言語化できないので、なんともいえない。わたしにとって「二次元の中の推し」という存在は、いろいろ御託を並べたけどまだおぼろ豆腐のようなもので、掴むことはできない。きっとわたし以外の二次元推しオタクにも、前の段落でいった事と似たようなことをおもう人はいるのだろう。だからこそ、声優の交際・結婚報道にさまざまなネガティブな声が聞こえるのかなと思う。さすがにそれはちょっと強引かな。

オタクをやめて。

 わたしはこうしてスクスタとスクフェスをアンストし、グッズを捨て、Twitterのアカウントを消し、「ラブライブ」の世界から逃げ出した。「いずれやめなきゃいけないな、こんな生活...。」と思っていたけど、期せずして「卒業」の時は訪れた。

 さすがにいま現在に人と会って感染ガチャを不用意に回すのは憚られるので、本を読んだり資格の勉強をするのだろう。キルギスの歌に「涙を信じない 我が街モスクワ」とあるように、淋しさ辛さをかこってもしょうがない。孤独は分かち合うのが人間というものだ。とか言って珍しくカイシャの同期をオンライン麻雀にさそった。ん?「じゃん○ま」...?)

 「オタクであること」は、少なくとも「悪」ではないと思う。心から楽しめるものは、必要だ。そして、好きだからこそ、「推し事」中に感じるストレスには、不協和音には向き合ってあげないといけない。それは心の深みと結びついているものであるような気がする。

わたしの得た教訓は、それだけだ。

※ここまで付き合ってくれた人がいたら、ありがとうございました<(_ _)>

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