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日本の「庭」とヨーロッパの「庭園」⑧

とても驚くことに、1990年、高校3年の時に綴ったレポートを読み返したら、30年後の私が知りたいことが、30年前の私によって綴られていました。
今の私が知らないことも多く綴られていて、なかなか興味深いので、noteに転載しています。一緒にお楽しみいただければ幸いです。


第3章 文化的要因による比較
第2節 宗教・思想
浄土宗と日本庭園

 浄土宗は、阿弥陀仏の本願を信じ、その仏の名号を唱えることによって極楽浄土に往生できる、とする仏教の一宗派である。1175年に法然が開宗して以来、既成化した仏教に不満を抱いていた人々に受け入れられ、急速に広まっていった。

 経典によると、人間が生きながら極楽浄土を訪問するには二通りの方法がある。一つは、修行を積んで神通力を得ること、もう一つは善行を積んで天界からの来迎を受けることである。
 しかし、貴族や貴族出身の僧侶は、苦難を避けて別の方法で極楽浄土に至ることを考えた。財力と権力とを行使して、現実の空間に浄土的景観をつくり出そうとしたのである。このようにして、平安時代後期の社寺境内に、浄土形式の池庭が数多く生み出されていった。顕著な実例として、道長の法成寺(※①)、頼通の平等院、藤原基衡の毛越寺、一乗院恵信の浄瑠璃寺(※②)などが挙げられる。

 では、浄土式庭園とはどのようなものだったのであろうか。

 奈良時代の浄土思想の表現として代表的なものに、当麻曼荼羅(※③)がある。そこには、様々な楼閣の前面に蓮池や舞台などがあり、阿弥陀如来を中心にほぼ左右対称に描かれている。従って、浄土式庭園の作庭意匠は、この絵図を立体化した寺院を想像すればよいのである。

 仏寺に営まれた浄土式庭園は、寝殿造の庭園とは発想的に異質のものであった。しかし、造園技術からみれば、両者には何の隔たりもない。建築と治水の対応の仕方、池の周囲にある石や樹木の構成など作庭の基本は同一であったと考えてよいだろう。
 平安時代には、寝殿造系の屋敷を施入して仏寺としたものが幾つかあるのだが、その場合、付置している治水を堂前の蓮池とみなし、寝殿中に仏像を安置するだけで充分であった。平安京の法興院や世尊寺などは、その例に漏れない。

 このように、浄土式庭園には、公家の好んだ寝殿造五庭園の手法が用いられているため、さらに意欲的に造園が行われ、平安時代後期には最盛期を迎えたのである。

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※① 関白藤原道長が隠世のための寺として建立。中国様式を脱却した日本化した寺院であるため、重要視される。

※② 聖武天皇の勅願で行基が創建、或いは多田満仲の草創と伝えられる。1047年、九体の阿弥陀仏が本堂に安置され、今日まで残存する。本堂(国宝)は、阿弥陀堂形式の一部を伝える。三重塔(国宝)も藤原時代の建造物。

※③ 「感無量寿経」の説相に基づいた阿弥陀浄土変相図。当麻寺本堂に祀られ、国宝に指定される。763年、横佩(よこはぎ)大納言の女、中将姫が寺に入って法如と号し、阿弥陀如来のお告げによって蓮糸の浄土変をつくったという伝説は有名である。



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