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日本の「庭」とヨーロッパの「庭園」⑨

とても驚くことに、1990年、高校3年の時に綴ったレポートを読み返したら、30年後の私が知りたいことが、30年前の私によって詳細に綴られていました。
レポートは400字詰め原稿用紙50枚を超えます。全生徒のレポートを読んで下さった先生方の偉大さを、今になってしみじみと感じています。
まだまだ続きますが、ゆっくりお楽しみいただければ幸いです。

第3章 文化的要因による比較
第2節 宗教・思想
禅宗と日本庭園

 インド文化を担ったといわれるアーリア人が侵入する以前から、インドには禅が伝わっていた。精神集中のために、足を組み姿勢を正し、呼吸を整えて静粛にするというのが、一般的な型である。
 インドでは仏教以外でも広く行われていたが、中国においては、天台(※①)・華厳(※②)の学問に裏付けられ、更に仏教思想の根本である「空」(※③)を直接体得するものとして、禅宗という仏教の独立した一派を成すに至った。禅宗とは、雑念を去って瞑想に耽り、難しい教理の学習や修行を経ずに、一挙に解脱に達して真理を把握しようとする宗派である。

 中国では唐代末期から宋代にかけて栄えた禅宗は、日本には鎌倉時代に栄西・道元らによって伝えられると、精神鍛錬にふさわしいと考えられ、武士層にも受け入れられるようになった。また、戦乱に明け暮れて明日をも知れない生活を送っていたことも、人々が禅に魅力を感じる一因となったに違いない。

 このようにして、鎌倉・室町期に禅宗は最盛期を迎え、茶の湯・立花・墨絵・能楽など美術活動全般に深く影響を与えたのである。

 禅僧は、自己の内面を凝視するために、禅の思想の形象化を図った。抽象的造形としての作庭も、精神錬磨の修行の一環であった。禅の真理を庭という形に表現することによって、自己の悟りをひらく助けにしようとしたのである。
 このような成立過程があるからこそ、禅を知らない者が鑑賞しても、禅庭には精神的エネルギーの凝縮が感じられるのだろう。石の姿と内面的世界の共鳴、すなわち形と心の一体化が、禅庭という優れた芸術になるのである。

 禅僧が修行としてつくったと考えられるものには、西芳寺(※④)洪隠山や大徳寺(※⑤)方丈の東庭にみられる枯山水石組などがある。

 

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※① 「天台三大部」のひとつに「摩訶止観」がある。これは、天台の観法である止観の実修を思想的に意義付けたもの。止観とは「止」すなわち心の雑念や妄動を止めること、「観」すなわち真理や実相を観ることで、坐禅の心の状態を示す。止によって定が、観によって智慧が得られ、定慧均等によって涅槃が得られる。

※② 華厳宗の教理は、すべてのものが円融無碍であるという関係を説いたもので、大乗仏教の縁起説の究極的発展を示す。教理の核心は性起説といわれ、人間も世界も仏の光明に生かされた存在であることを主張する。

※③ 「空」は仏教思想の究極ともいわれる。存在者が実体や我をもつことの否定であり、同時にそのように考えることの否定でもある。これによって凡夫も、その煩悩を粉砕して聖なるものに近づくことが可能になる。 

※④ 通称「苔寺」。行基が聖徳太子の勅願で開創した当初は、阿弥陀三尊を安置して「西方寺」と称した。暦応年間、夢想国師疎石が中興となって禅宗に転じ、寺名も「西芳寺」に改められた。疎石の築造した庭園は、特別名勝に指定されている。

※⑤ 初期には後醍醐天皇の尊祟を受け、五山の第一に推された。後に千利休や小堀遠州が山内に庵を結び、茶道との縁由が深まった。そのため、開祖の純粋な禅風は消え、茶道などの風流を骨子とする寺になる。


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