ポルトガル
ポルトガル第二の都市ポルトの郊外には、一大革靴生産地がある。サン・ジョアン・ダ・マデイラという名の小さな街だ。ポルトから車で三十分ほど南へ下ったところにある。この街とその周辺にポルトガル靴産業を支えるほとんどが集中して集まる。数多くのメーカーが存在するが、残念ながら聞き知ったものはほとんどないのが事実だ。何故なら、ほとんどのメーカーは自社ブランドではなく、他社のブランドの靴をつくっているからだ。それもポルトガルのブランドではなく、フランスやイギリスのものが多い。
フランス人やイギリス人はブランディングが上手い。ある程度の広告費と靴の紙箱や靴の袋、靴べらのような販促物など、靴周辺の備品に投資し、付加価値をつくる。あとは芸能人などに履かせて話題を作り、メディアを利用したブランディングを行う。もちろん能力のあるデザイナーを登用したりしてキャッチーな商品づくりをする。そうしておいて、製造は他国の職人と設備に頼ることになる。ただし、そこでは職人の工賃などはコストのうちのほんの一部となり、非常に高価な商品として店に並ぶ。消費者はそれをブランド=信用として受け入れて対価を支払う。そこには素の商品である靴そのものを購入する満足以外に、そのブランドを所有する満足が加わる。話題になっている今年一番の流行を、または、ジュード・ロウと同じ靴を履くことの満足が加わる。そこには非常に高度な、そして年々高度になっていく資本主義経済が成り立っている。
この仕組みは何も今始まったことではなく、三十年前から行われてきた。最初はイタリアで製造した。当時イタリアには、安価な労働力、熟練の職人、高度な設備という、製造に必要なすべてが揃っていた。イタリアの工賃が上がると、スペイン、ポルトガル、トルコと、下請けの国は変化している。現在、下請け国のトップは中国だ。いくらポルトガルの労働力がEUのなかでは安価だとはいっても中国にはかないっこない。
イタリア人はフランス人やイギリス人ほど上手ではないけれど、何とか自分のブランドを立ち上げてきた。イタリアの工場は、自社ブランドの開発に日々努力している。イタリアブランドが中国やルーマニア、クロアチアなどに下請けを出すようにもなってきている。スペインもイタリアとは違うアプローチで独自のブランドを立ち上げつつある。今度はポルトガルの番だ。
いま現在、ポルトガルの工場は非常に厳しい状況に追い込まれている。いままで様々なブランドの下請けとして仕事を受注してきたメーカーたちは、その仕事を中国などに奪われつつある。職人技を必要とする高価な靴の分野ではまだ下請けを受注できているが、これも時間の問題だという人もいる。
それにしても、大航海時代には栄華を誇った国である。ブラジルをはじめとしてインド、アフリカなどにその勢力を広げていた。ただしそこには、ヨーロッパ西端の小国という前提があったのかもしれない。事実、スペインとの国境は世界で最も古い国境として知られている。つまり、スペイン側には勢力を広げようとしなかったのだ。また、近代のポルトガルの歴史は、栄華を誇った時代の植民地支配を喪失してゆく歴史そのものであった。少し寂しい歴史だ。
一時的にイギリスの実質支配を受けていた時代があるにもかかわらず、ポルトガル自身はイギリスよりもフランスとの関係が深い国である。実際、十数年前には、第二外国語としてフランス語を勉強していたそうだ。(現在は他国同様に英語である。)そのせいで、ある程度年配の人にはフランス語を話せる人が多い。そして現在もフランスブランドの靴や洋服を下請け製造しているわけだ。
ポルトガルの紳士靴で有名なのは、ドライビングシューズやデッキシューズなど、モカシン製法を用いたおしゃれなカジュアルシューズと、イギリス式のグッドイヤーウェルテッド製法の堅牢なドレスシューズだ。いずれもフランスの下請け時代に培ったノウハウを活かしたヨーロッパテイスト溢れるものだ。そしてこの、「ヨーロッパテイスト」こそがポルトガルの生き残る道だと思う。人々はこの「ヨーロッパテイスト」を求めてヨーロッパブランドの商品を購入する。中国にはこれが出せない。中国製品にはどうしても実用品の匂いがある。足を保護するために履いてボロボロになったら捨てる、といった雰囲気が漂ってしまう。地中海の燦々と降り注ぐ太陽のもとに生まれた、リゾート気分溢れる商品をつくるのが難しい。また、ヨーロッパ伝統の格式高いドレスシューズにしても同じだ。紳士の洋装文化という点では、我々日本も中国も大幅な遅れを取っている。そしてヨーロッパの最高の素材を自由に使用できる環境が整っているのも大きなアドバンテージだ。
ポルトガルの人々は本当に陽気だ。イタリアやスペインにも増してのんびりとして楽天的な感じがする。ギリシャの次に破綻する国とまで言われているその暗い国内情勢とは裏腹に、心底から嘘のない、豊かな人間性を備えているように感じられる。そんな彼らのつくる靴には、やはり誤魔化しのない誠実なものが多いが、ブランドをどうするか? という問題でいつも困る。お客様の安心という点では、我々の店の名前を冠したオリジナルネームにしたほうが良い場合がある。何しろ他ブランドの下請けを業としてきたメーカーだし、オウンブランドは見たことも聞いたこともないネームになってしまう。メーカー側も自分たちのつくった靴に他ブランドを冠することには慣れっこなので何とも思わないのだが、彼らの素晴らしい人柄と、そのまっすぐな瞳を見ていると、ビジネスは抜きにして迷ってしまう。そして、今後彼らがますます厳しい状況に追い込まれ、自社ブランドのブランディングが不可欠になってくるということを考えてしまうと、ついつい彼らのブランドを日本に紹介してあげたくなってしまう。例えそれがあまり洗練されたロゴでなくとも、キャッチーな響きでなくとも、彼らの嘘のない、まっすぐな眼差しがお客様の足元に届くことを信じて。
現在、多くのショップではその店のオリジナルブランドを冠した靴が存在する。そして実際はメーカーのオリジナル商品のネームを張り替えただけのものがほとんどだ。そこにはビジネス、利益、(建前として)お客様の安心があるが、つくり手へのリスペクトはない。リスペクトのないところに発展はないし、ただ高度な資本主義原理による消費が繰り返されるだけだ。私を含め、皆こんなことは望んでいないと思う。最高の形としては、ユーザーがつくり手へのリスペクトを持って誇らしく履くことだ。買い物の際にも、またその靴を履くたびにリスペクトの交換が為されるとしたら、本当に最高だ。世界はずっと理想に近づくに違いない。
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