道なき道を行く、占星術を通した話
今日は占星術の話。教科書には載らない領域の話とでも言いましょうか。
占星術師になってから15年目になりました。これは占星術のサイクルを使った言い方をすると、セカンダリープログレッションの月の周回半周という時間単位。
20歳で就職したタイミングでスタートし、4分の1で結婚。小さい頃から計画していたことを全部ふいにしました。
まあ逆にいうと、生まれてからこのかた取り憑かれていたことから解放されたとも言えるタイミング。
生まれた時の月のあったところから、時計が動き始めているのでカチカチと進んできて、ネイタル(出生図)に戻ってきているのだから、ゴールと言えばゴールなので、ここで解放されたというのはある意味良かったのかもと占星術脳だと思うのです。
そこで、考えるのが内面の変化は星自体にあり、この世に生きる上で必要な肉体という皮の位置がハウスの枠なんじゃないかなと。ハウスという枠を持つことによって、人間の文明社会の事象を通して言語化できるのかもなとふと思ったのです。
だから心の区切りはネイタルの月に帰ったときに着いたのかなと。そしてアセンダントを通過するときは対社会、物質的な要素を含むような気がしています。心は変わってないけど、社会に対する態度などが変わるというか。
今回のセカンダリープログレッションの月のサイクルの影響は外側から来て変化を告げました。
アセンダント通過3年前くらいに、12ハウスにはいり隔離された状態がわたしが何もしてなくてもガンガン表現されていく。
まずアメリカのお母さんが亡くなりました。
次にまつい先生がお店が閉店し、その後すぐ亡くなりました。事務所として使っていた場所が閉鎖。
占星術を仕事にして頑張ることへのモチベーション急落しました。
夫がいるので経済的に甘えることができてしまうから頑張る理由がなかったのです。
しばらく考えようとのんびりしてたら、外にアクセスできないという象徴がコロナとして現れました。仕事できないことに大義名分ができました。
占星術師としてのキャリアが吹き飛んだらどうしようとちょっと悩みましたが、流れに身を任せ。どうしてもやる気がでなかった。
2020年は余力で動けてましたが2021年は沈黙に近い年になり、2022年の夏まで続きました。夏頃、12ハウスのサインである双子(インターセプト)からアセンダントのサインである蟹サインに移った途端、カーディナルの力か、動けるようになってきたときは、占星術ってすごいなとただただ感心しました。
航海でいうところの、『島が見えてきたぞ!』の状態だなあと思いました。気持ちが切り替わっていくのを感じました。
まず春に子どもが独立して一人暮らしを始めました。喜ばしい達成感でした。見守ることはこれからも続きますが、責任が外れた気がしました。
私の義務的コトワリの鎖があらかた外れてかなり自由になりました。
旅の回数が増え始めました。ブログが書けるようになってきました。noteを活用し始めます。
長野の仕事のお話をいただきました。
プログレッションの月がアセンダント通過する日に過去の遺産ともいうべきウェブサイトが急にぶっ壊れました。
書き溜めていた自分の足跡たるブログが全部吹っ飛ぶってすごい衝撃でしたが、タイミングがタイミングで諦めがつきました。
2022年冬至の今日、あるスピリチュアルな生き方をしてる方とお話しする機会がありここ30年の旅路の総括となりました。
木星が牡羊にイングレスし、太陽はヤギにイングレス。アセンダントが元々夏至点にあり、太陽は秋分点ですから、AP(アリエスポイント)祭りでした。
たまにあるのです。自分が気がついていないことを気がつかせてくれるガイドのような人が。自分で話してる言葉で腹落ちする流れを作ってくれるというか。
これはなんの巡り合わせかと衝撃を受けました。この方とお話しする日付けも空いてる日が今日21日だけで偶然でした。
セルフヒーリングが勝手に起こり、自分が説明のために懸命に紡ぐ言葉が私にどんどん自分自身のヒントとして生まれ変わっていく
I can show you the door,
but you have to open it.
自分で話していて、そういう占星術師でこれからもありたいなと思いました。
お話を聞いて、星を通し、今を伝え、本人が気付きにたどり着く、そんな道案内役。
もともと青い鳥のフレーズはそう言った意味合いを持たせて使ってました。あなたの家にいる青い鳥に気がつくには経験を積んで目から鱗を落とさなくてはならないときがある、そういう旅の案内人。
これがSP月がアセンダントを通過した瞬間のシンプルな感想です
【袖触れ合うも他生の縁】とはこういうことだなあと。
理屈とは人が自然の摂理を理解しようとした時に活用する方便であり、真理ではないのですよね。
道はあるように見えてなく、見えている道が行くべき道でないこともある。自分の歩いた後ろが道であり、前には存在しない
50年近く生きてて、なんとなく掴んだ真理のしっぽな気がします。