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映画『怪物』のふたりは死んでしまったのか
品川の映画館でポップコーンをしきりに食べながら(例によって、朝食を食べる時間がなかったから)、『怪物』を観た。是枝裕和が監督、坂元裕二が脚本。カンヌで脚本賞およびクィア・パルム賞を受賞したことで知られる。
ほとんど徹夜明けで来たのだという同行者のMさんは、それでも観ているあいだ一睡もしなかった。脚本賞を受賞しただけあって、サスペンスフルで巧妙なシーンが引き続き、飽きる暇なく物語が展開される。
この映画を見たあと、わたしたちは甘味処で冷やし中華または五目あんかけそばを食べながら、主人公のふたりは果たしてどのタイミングで死んでいたのかということをひとしきり話し合った。あの浴室のシーンで彼は死んだのか、それとも電車に引き篭もったあとでふたりとも命を落としたのか?
でも、そもそもふたりとも死んではいないという理解のほうが一般的であるらしいと知ったのはあとでGoogle検索をしてからのことだった。もちろん、最後までふたりの姿はスクリーンに映っている。そうだとしたら、ふたりは死んでしまったと解釈することは、いたずらに悲劇をもとめる観客の身勝手な欲望のあらわれなのか。必ずしもそういうことではないだろう。最後の場面の演出があまりに理想化されすぎたし、従前のさまざまな台詞が死をレトリカルに仄めかし過ぎていたから、それが死後の世界を意味するものだと考えてもべつに差し支えない。
だが、問題はそこではない。死んだのか生きているのかという問いを考え続けていてもほとんど意味がない。プロットを少し検討してみれば、本来ならば星川くんは死んでいなければならないし、そこに解釈の余地などないことがわかる。まるでふたりが生き伸びて、希望的な一歩を踏み出したかのように演出されてしまったことのほうが誤っている。
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