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『細雪』私的解釈

『蒔岡家のある日の夏』という記事で、
僕は『細雪』の隠れたテーマは「貞之助の秘めたる恋」だと述べました。

この隠れたテーマについて知ったのは、橋本治氏のエッセイでした。
実は『細雪』のどこを読んでも、そんなエピソードはありません。
それ故にこそ、秘めたる恋なのでしょうが。

この記事では貞之助の恋ついての考察と、
それが『細雪』のストーリーに及ぼす影響を考えました。

『細雪』あらすじ

昭和初期の関西。船場の名家、蒔岡家には四人姉妹がいました。
三女の雪子は婚期をのがしていました。雪子と四女の妙子は、長女鶴子の本家とはソリが合わず、次女幸子の住む芦屋の家で暮らしています。
幸子の夫が貞之助。
隠れたテーマが真実なら、貞之助は義理の妹に恋をしていることになります。倫理観の厳しい当時では、今以上に口外できない出来事です。

気になる場面

長女鶴子とその夫が転勤のため、東京へ引っ越すことになりました。
芦屋の幸子の家を叔母が訪ねます。叔母は、
「雪子と妙子は表向き本家の人間なので姉夫婦とともに東京へ行くべきだ」
と意見します。今とは違い、当時の人はこういう、どうでもいい事で世間の目を気にしたのでしょう。
叔母が態々家にまで来て言うので、幸子は仕方なしに雪子を探しに席を立ちました。
(妙子は当時としては進歩的な女性で、日中は外で働いていました。)
幸子は内心では、芦屋の家を離れたくない雪子の心中を察しています。
その次に以下の描写があります。

「暦の上では秋に這入っているのだけれども、このニ三日暑さがぶり返して、土用のうちと変わらない熱気の籠った、風通しの悪い室内に、珍しく雪子はジョウゼットのワンピースを着ていた。彼女は余りにも華奢な自分の体が洋服に似合わないことを知っているので、大概な暑さにはきちんと帯をしめているのであるが、一と夏に十日ぐらいは、どうにも辛抱しきれないでこう云う身なりをする日があった。」(細雪・上巻 二十二)

蒸し暑い部屋で〝東京に行きたくない〟とうなだれている雪子がいました。
雪子は洋服姿が自分には似合わないと思っているため、姉や妹以外に見られたくありせん。貞之助が帰ってくる夕刻には着物に着替えるほどの、細心ぶりです。それでも貞之助が雪子の洋服姿を目にすることがありました。その描写は以下の通り。

「……それでも貞之助は、どうかした拍子に見ることがあると、今日は余程暑いんだな、と心づいた。そして、濃い紺色のジョウゼットのしたに肩甲骨の透いている、痛々しいほど痩せた、骨細な肩や腕の、ぞうっと寒気を催させる肌の色の白さを見ると、俄に汗が引っ込むような心地もして、当人は知らぬことだけれども、端の者には確かに一種の清涼剤になる眺めだとも、思い思いした。」(細雪・上巻 二十二)

敢えてなのか回りくどく書かれた描写に、貞之助の性的な関心を埋め込んだと僕は考えます。かねてより貞之助は、雪子を女性として見ていたのではないでしょうか。
ひとつ解せないのは、この一文が、

〝口うるさい親戚がやって来た〟
  ↓
〝幸子が雪子を説得に来た〝 
  ↓
〝雪子は蒸し暑い部屋でうなだれていた

というくだりの後に続けて書かれていることです。さらにこの一文の後、雪子は幸子の説得をしぶしぶ受け入れ、数日後には東京へと発ちます。貞之助が雪子の露わになった肌を見てどう思ったか、という挿話は不要と言えば不要です。
(なお四女の妙子は、仕事の区切りをつけてから東京へ行く約束でしたが、引き延ばしているうちに行かなくなりました。)
この不自然な挿話について以下のように考えました。

貞之助の恋が物語に及ぼす作用

『細雪』は『源氏物語』の影響を受けている、と言われます。
四季折々の美しい情景を描写している所、ワンセンテンスの長い文体など、たしかに影響の見られる部分は多々あります。しかしもっと深く、構造的な部分で影響を受けた箇所がある、と僕は考えます。それが先に述べた、雪子の東京への「下向」です。(関西に長年馴染んだ雪子としては「上京」という感覚ではなかったでしょう)

『源氏物語』では、光源氏が須磨へ下ります。政敵・右大臣家の娘、朧月夜との密会が露見したためです。いわば、恋によって失脚、流浪の身となりました。

一方、『細雪』では雪子が東京へ発ちます。雪子に全くその気はなかったとはいえ、貞之助に思慕された彼女は、彼女の姉の説得で芦屋の家を出て(=失脚)、東京へ下ります(=流浪)。
幸子としては日頃から夫の視線の先に気づき、内心ヤキモキしていたかもしれません。そこへ叔母からの意見があり、叔母の顔を立てる形で夫と妹を引き離そうと考えた可能性があります。

雪子の菩薩性

もし、雪子は貞之助の視線や姉の考えに気づいていたとしたら。その可能性を考えると、彼女は無辜の罪を、そうと知りながら引き受けたことになります。
『細雪』の作中で雪子は、その古風な美貌や楚々とした佇まいから「永遠のマドンナ」的なポジションを与えられています。そこにさらに、上述の考察(無辜の罪を引き受ける)を加味すると、菩薩のような女性像が浮かび上がってきます。その姿は、人の苦しみを引き受け、肩代わりのために流浪するという聖性を負っています。
光源氏の須磨下向は「貴種流離譚」が元型だと言われます。
雪子の東京への「下向」も「貴種流離譚」をなぞるようでありながら、聖性を負っての流浪というバリエーションを加えることで、「貴種流離譚」から枝分かれした一形態、一つの異聞、と見ることも出来ます。


さいごに

しばらくすると雪子は見合いのために芦屋へ呼び戻されます。最後にはめでたい結末を迎えます。「貴種流離譚」との呼応はここでも確認できます。
とはいえ、『細雪』は近代小説です。神話がそう易々と復権する訳でもありません。芦屋の家に雪子は再び〝なんとなく〟居つき、幸子も貞之助も〝なんとなく〟面倒をみる、といったありさまです。
この尻切れトンボの顛末を、僕は日本的だなあと感じるのです。

東京下向以前もそれ以後も、普段の幸子は、雪子に対し愛情深い態度で接しています。幸子としては「少しの間、二人を離しておけばいい」と思っていたのかもしれません。

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