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薔薇とラベンダーとブルースターと #月刊撚り糸

 花屋というのは、よく目にするし香りも主張する割に、日常的に立ち寄る場所ではないというのが一般的な見解ではないだろうか。最近の若い人について言えば、個人で営まれている花屋で花を買ったことのある人の方が少ないくらいだろう。大手のスーパーにはだいたい花屋が入っているし、わざわざ町の個人店に行くほどのことはない。
 志摩子(しまこ)が働く『グリーンゲイブルス』も同様で、長くの常連さんが訪れる他に客足はほとんどない。店主の槇笠(まきかさ)は花屋一筋でやってきた63歳だが、営業活動を一切しないため新規顧客の獲得は見込み薄である。
 幼い頃、絵本『こまったさん』の花屋に憧れ、花好きだった祖父の影響も相まって就いた夢の職業だったが、先々を考えると転職も視野に入れるべきかと、最近の志摩子は少し悩んでもいる。

「あ、いらっしゃい」
 朗らかに響いた槇笠の声を耳にして、志摩子は薔薇の棘を落とす手を止めて店先を振り返った。あ、どうも、と小さな挨拶を返しているのは常連のひとりである。
「あ、笹部さん、いらっしゃいませ」
 顔見知りの彼に挨拶をすると、彼はちょっと目を眇めて志摩子を見、どうも、と軽く頭を下げた。
「それ、薔薇ですか」
「ええ、そうですよ。ダマスク・ローズといって、香水とかにもよくつかわれる品種です」
 志摩子はすらすらと答えながら、手元の作業を続行していた。働きはじめの頃はそんなことできなかったのだが、もう慣れたものである。
「可愛らしい花ですね」
 志摩子はちょっと驚いて目を見開いた。笹部は普段クールで寡黙なタイプで、花の感想を口にすることはあまりない。
「香りも良くて華やかなので、お部屋に飾ってもいいと思います」
 笹部は少し考える素振りを見せて、そうですね、と同意した。実際に花を抜いてまとめるのは槇笠の仕事である。志摩子は微笑んで、薔薇を送り出した。


◆◇◆◇


「ただいま~」
 玄関口に鍵を仕舞いながら、志摩子は帰宅を告げた。リビングの扉が開き、敬一がひょっこりと顔を覗かせる。
「おかえり~。今日は親子丼ですよ」
「いい匂いするなと思った! すぐお風呂入ってくる!」
 志摩子と違って土日祝が固定休みの敬一は、休みの日に晩ごはんを作ってくれる。おかえり、と言ってもらえる安心感と、迎えてくれるいい匂いは志摩子の癒しだ。お風呂から上がると、リビングのテーブルには食器がセットされ、後はよそうばかりとなっていた。
「ん~~~。美味しそう」
 キッチンを覗いて志摩子が言うと、敬一は照れたように笑い、しっしっと手でテーブルを指した。
「持ってくから座ってて」
「はーい」
 ほかほかした気持ちで志摩子はテーブルについた。これをきっと幸せと言うのだと思う。この幸せを、続けさせたいと思う。


 その夜。志摩子が食器を片付け、ふたりでゲームをしてだらだらと過ごした後、ふたりでベッドに入った。普段クールで寡黙な敬一は、ベッドに入ると甘くイジワルになる。散々志摩子を追い詰めて、志摩子が息も絶え絶えになった頃、ちょっと待って、と枕元に手を伸ばした彼が、そこで困惑の声を出した。
「……ゴムがない」
 頭に靄がかかったような状態で、それでも以前ふたりでした話を思い出して、志摩子は言う。
「しなくていいよ」
 その瞬間、志摩子は敬一の目に困惑と躊躇を読み取って、頭にかかった靄が晴れた。さっと、身体から熱が引く。
「……わたしが口でする」
 雰囲気を壊さないように柔らかな声で告げて、柔らかな手つきで敬一を押し倒す。抵抗してほしいと微かな望みを心の片隅に抱きつつ、まだ躊躇の様子が残る敬一を飲み込む。喉が苦しいふりをして、二粒小さな涙を零した。


◆◇◆◇


 大丈夫、と自分に言い聞かせてきた。今が幸せだから、焦ることはないと。
 けれど女の身体にはタイムリミットがある。ずっとこのままではいられない。この焦りは感情のものではなく現実のもので、時間が解決してくれるようなものじゃあ、ない。
 志摩子の願い、望み、祈りは、ひとりではかなえられない。
 刻一刻と確実に進む時間の中で、身を焼く焦りに水をかけながら、志摩子は誤魔化し誤魔化しここまでやってきた。


◆◇◆◇

「こんにちは」
 ぼんやりとラベンダーの様子を確かめていた志摩子は、声をかけられてはじめて、そこに笹部がいることに気づいた。
「あっ、すみません。いらっしゃいませ」
 慌てて挨拶をした志摩子に、笹部は眩しさにあてられたような様子で少し目を細めた。彼は少し、敬一に似ている。
「それは?」
「ラベンダーです。今がちょうど盛りなので、紫色がとても鮮やかです。香りにはリラックス効果があるんですよ」
 笹部はほう、と頷いている。顎に当てられた左手に指輪はない。それを確認する自分の浅ましさが悲しくて、志摩子はにっこりと笑みを作った。
「ブーケにも、部屋に飾るのにもおすすめです」
 笹部は何か言いかけ、ふっと口を閉じた。志摩子が首を傾げたタイミングで店主の槇笠が現れ、やあ笹部さん、と声をかける。あ、とそちらに挨拶を返す笹部に一度頭を下げ、志摩子は後ろの温室に移動した。痛覚なんて持っていないはずの心臓が、やけに痛いように感じた。


 結局笹部は、ラベンダーで花束を作って帰ったようだった。その日の片づけ中に、槇笠からちょっと、と呼び止められた志摩子は、なにか悪いことをしたわけではないにも関わらずびくりと反応してしまった。
「はい……。なんでしょうか……」
 戦々恐々とした様子の志摩子に対し、槇笠はけらけらと笑った。
「そんなビビんないで~。シフトとかの話をちょっとしたいだけだから」
 シャッターを閉めた店のバックヤードで、店長は事務机の前に丸椅子を持ってきて腰掛け、もともとそこにあった背もたれ付きの椅子を志摩子に勧めた。
「えっ、そんな、わたしが丸椅子に座ります!」
 志摩子は恐縮したが、槇笠は朗らかに笑うのみだったため、厚意に甘えることにして勧めに従った。
 槇笠の話は、来月から定休日を日曜日にするということと、若干ではあるが給与を上げるというものだった。どちらをとっても有難い話であり、志摩子は安堵と喜びが胸を満たすのを感じた。お礼を繰り返す志摩子に、努力の結果だから、と槇笠は言いそのままの声音で言葉を続けた。
「最近なにか悩んでたでしょ。ちょっとでも助けになれたらいいんだけど」
 志摩子よりも断然人生経験が豊富な槇笠である。様子を察せられていたことについての驚きはなかった。悩みの内容を詮索するような口調でもないことに安心して、志摩子は重ねて礼を述べる。同時に、悩みの進捗によっては折角ここまでしてくれるお店を離れなければならないのかとも考え、チクリと胸を刺す存在を感じた。その存在は話を終えた槇笠が花の様子を見に表に出てからも続き、しばしバックヤードで佇んだ志摩子は、その痛みだけではない何かに突き動かされ、表に続く扉を勢いよく開いた。
「槇笠さん。わたし、今日は花を買って帰ろうと思います!」
 急な宣言に、槇笠は少し驚いたように穏やかな目を開き、やがて莞爾と笑って頷いた。
「なんでも、好きなのを選ぶといいよ」


 店を出た志摩子は、ブルースターをメインにした花束を抱えて家路を急いだ。今日も、敬一は家にいる。
 話をしようと思った。今日あった話を報告してから、これからのことを。志摩子の希望と、敬一の希望を。ふたりのことを。
 これまでのように曖昧であやふやなままにするのではなく、どうしたいのか結論が見えるようにしたいと思った。
 きっとこれは、志摩子のエゴの押し付けだ。これまでのふたりはお互いエゴの押し付けを嫌うあまりに曖昧だったのだと思った。お互いのエゴを見せ合ってふたりのものにして、それでも一緒にいられる相手と未来があるのだと思った。


 空には月がある。手元にはブルースターの花束がある。何が正解なのかはまったく分からないけれど、不器用なふたりの不確かな未来は、今日確かに少し動いた。




【完】 


#月刊撚り糸 #花を買って帰ろう#花言葉

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