セルフ・コンパッションとは、心に住むきつねの親子を感じること
リスニングママ・プロジェクトの仲間であり高校以来の友人であるともちゃんが「マインドフル・セルフ・コンパッション」についての学びと経験をシェアしてくれる会に参加した。
自分自身に思いやりを持つとは、どういうことだろう。
10数名の仲間がZOOMの画面上に集って、あたたかい気持ちになった。
ともちゃんが、本や講座で学んだことをざっくりまとめて伝えてくれて、ふむふむ、とききながら、ある程度予備知識と興味が積み重なったところで
実際に手のひらに氷を載せるというワークをやってみた。
2個の氷を両手のひらに載せて、2分間。
私の反応:冷たいから、何度かリタイアしようとよぎったけど、2分だしな、とちょっと我慢する、を繰り返した。
手のひらを傾けて、なるべくいろんな位置に氷が移動するようにして冷たさを避ける。
ストレスフルな状況を、小さく工夫しながら終了時間に向けてやり過ごす、日常的な反応だなあと思う。
別に2分頑張って耐えなくてもいいじゃん、もうリタイアしようよ、という声も内側からする。
そうこうするうちに、氷が少し溶けてきて、
「お、すごいな、体温。生きてるな、自分。ありがとう、身体」
と自分にリスペクトと感謝がわく。
そしてタイマーが鳴った。
晴れて氷を器に放り、タオルで手を拭いて、頭に浮かんだのは、
童話『手袋を買いに』だった。
新見南吉のその作品は、確か小学校の教科書に載っていた。
子ぎつねが、初めての雪のまぶしさに驚いて、
「お母さん、目に何かが刺さった!」
とほら穴に飛び込んでくるシーンから始まる。
雪は冷たく、厳しく、かつまぶしく、美しい。そして、一定期間はそこにあり、さらに季節が変わるまで増える。子ぎつねがこの先の人生(狐生)で遭遇する様々な出来事はそんな風に降りかかってくるだろう。
母ぎつねは、雪を降らないようすることも、積もった雪をどけることもできないが、この子に手袋を与えようと思いつく。しかし、過去の経験から、人里に降りて自分が人間と接することは怖くてできない。
果たして子ぎつねを「危険な」おつかいに出すのだが、子ぎつねは無事に帰ってくるというストーリーだ。
私が憶えていたのは、「目に何か刺さった!」という冒頭のシーンと、物語のラスト、雪明りの夜にほら穴に帰っていくきつねの親子の足跡の描写。「コバルトの影」というフレーズとともに小学校3年生くらいでイメージしたその光景をありありと思い出した。
氷を載せた手の冷たさと、そこから逃れたあとの体温を取り戻す感覚から、一挙にこの物語とイメージが私の内側に湧いて、セルフ・コンパッションについての私なりの理解がすとんと肚に落ちた。
■まぶしい!冷たい!そんな刺激の感覚を新鮮に受け取ること。(このぐらいなんともない!とか否定せずに)
■生き生きとした感覚を抱きとめて共有し、温めて、知恵を授けること。
(ここも否定や過小評価しないのが大事。知恵も与えすぎず入り口の示唆)
■冒険に送り出し、見守ること。
(守りすぎない心配し過ぎない、自分(過去の集大成)の保護の限界を知る)
■冒険から帰った子を迎え入れて、ねぎらい、安心をともに味わうこと。
(こちらからレッテルを貼らずにただただ受け止める。ともに味わう。次の話もしない)
この母きつねと、子ぎつねの両方が自分の心のほら穴に住んでいるのだ。
後で、物語を思い出したくてネット検索したら、朗読のyoutubeがあがっていたので聴いてみた。
新たに思い出したシーンがあった。
子ぎつねが手袋を買ったあとに、母きつねに会うまでの帰途、1軒の家の窓の外で、人間の母さんが子守歌を歌うのを聴く。子ぎつねは急に母さんに会いたくなる。そうだった、私もこの子守歌、好きだった!
セルフ・コンパッションのシェア会で教えてもらった大事なことは、自分で自分に思いやりを与えるリソースがない時には、他者からもらうのもいい、ということだ。
自分の内なる母きつねが疲れ果てていたら(そういうときあるよね!)、他者からあたためたりねぎらったり歌ったりしてもらおう。リクエストしてもいいし、これまでリクエストしなかったときにも私はたくさん与えてもらってきた。本当にありがとうございます。
私がセルフコンパッションをじゅうぶん自分に与えることができていたら、誰かに思いやりを向けることだってできる。
リソースは循環する。なんなら増える。
きつねの親子が歩く、ふたつの足跡には、コバルトの影がたまる。
雪は冷たいし夜は暗いけど、美しい。
↑ともちゃんの手元にあったのはこの本。
↑いろんな画家さんで絵本になっているけど、私は黒井健さんの絵が好きだった。
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