炊飯器を開ける時に一緒にいてほしい
『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』が重版出来となりました!みなさまのおかげです。ありがとうございます。
今日は新月なのであらためてこれからやっていきたいこと、叶えたいことについて考えています。新月のウィッシュリストづくりワークショップを定期的にする以前、20年ほど前、参加者として宝地図(ビジョンボード、コラージュ的なもの)を作ったときから、いや、中学生くらいの自分も多分抱えてきた、「出版」は私の夢のひとつでした。
が、本を出してみると「出版」は単なる(大きな)手段・形式に過ぎず、したいことは「伝えたいことを伝える」ことであって、本になっただけでは伝える可能性は増えたけど、物があるだけで自動では伝わらない。当たり前といえば当たり前のことに気づかされます。
なので読書会や対話会や、授業での活用提案など、諸々を企画して開催しています。
それと高橋ライチ個人として、並行して進めていきたいのが、次作のこと。次は単著で「聴く」についての本を書きたい。先日、『きみトリ』の著者のひとり稲葉麻由美さんが「呼吸」についての本のことを、「師匠いわくこの本に全部書いてあるそうです」というようなことを言われていてしびれました。私も、「『聴く』についてはこの本に全部書きました」と言えるような本を書けるだろうか。更新されていく部分と変わらない部分。
というわけでnoteにこまごまと「聴く」まわりのことを書き集めていきます。前置きが長くなりましたが、表題の話。
もう20年以上前のこと。
ある日、ひとり暮らしの友人宅に遊びに行くと、「実はこの炊飯器、半年前に炊いたご飯が入ってるんだ。怖いから、開ける時、一緒に居てほしい」と言われました。
私は、中身はご飯ならば、めっちゃ腐ってたとしても強烈な臭いぐらいしかダメージなさそうだし、むしろどうなってるのか話のネタになりそうなので気楽に「いいよ~」と答えました。
友人はホッとした表情を見せ、炊飯器のふたを開けました。1人暮らし用の、2合炊きくらいの小さな炊飯器です。
中に入っていたのは、1合分の、円盤状に固まった「干し飯」でした。(干し飯の実際を知らないけど、言うなれば)
端が薄黄色みを帯びた、半乾燥の半透明のご飯の円盤。
思ったより怖いものでもひどいものでも、なんなら臭くもなかった。
ただ、置いておいても使えるものではない。(リアル干し飯であれば使えるがこれは違う)
友人「ああ」
私「おお」
友人「よかった・・・」
私「こんなふうになるんだね」
と言ったか言ってないかはよく覚えてないけど、こんな気持ちのやりとりがあったのだと思います。
突然こんな話を出したのは、「聴く」ということは
「半年前に炊いたまま放置した炊飯器のふたを開ける」ことに似ているからです。
放置した自分が悪い
酷い臭いや様相にやられそう
大量の虫が走り出てきたらどうしよう
予測もつかないもっと怖いことがあるかもしれない
いろんな考えが浮かぶ中、友人が一個目の自業自得論にとらわれずに私を誘ってくれたので、私も友人も、「意外と大丈夫だった!わははは」という体験ができました。(予測以上のすごい状態だったとしても、きっと二人なら意外と大丈夫だったのでは)
「聴く」ということは、このように、その人が向き合う瞬間に「立ち会う」ことです。
開けるのが怖い、目をそむけたい、でもなんとかしたい。
また放置すればその間使えない機能がある。(この場合は炊飯)
そこに立ち会って、酷くても・意外と大丈夫でも「おお~」と一緒にそのインパクトを受け取る立会人。
過去に体験したけれど未処理なできごとは、炊いたのに開けてない炊飯器のようなもの。その時には「今じゃないよね」とほかのことを優先させて開けるタイミングを逸してきたもの。
で、これができる人を増やしたい。
私は自分が国家資格も何もない立場として、友人や家族や通りすがりの一般の人が、こんなことに立ち会えるための聴き方向上のための仕事をしていきたいのです。
たくさんの中身不明の炊飯器を増やすのでなく、誰かと一緒なら開けられて、なあんだとともに笑いあえるような、そんな「誰か」を増やすのが私の仕事です。
タイトル画像は、きっと誰が炊いてもそれなりに美味しい、トウモロコシご飯。炊き立ての炊飯器を開けるときも、誰かと一緒だと嬉しい。
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