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金印が語る南越国の繁栄 《西漢南越王博物館》

前回の記事では、広州の歴史が動き出す秦の始皇帝から南越国の独立までにスポットを当てて紹介しました。

今回は、引き続き南越国の物語と広州観光では欠かすことのできない南越国の歴史遺産「西漢南越王博物館」をご紹介したいと思います。

なお、内容は、個人的な意見や感想を交えてまとめておりますので、ご了承ください。

1. 南越国の趙佗

始皇帝の死後、混沌を深める秦王朝。現在の華南地区一帯を治めていた「趙佗」が、前204年に独立して建国したのが「南越国」でした。

そもそも、趙佗は、始皇帝の護衛兵を務めていた人物だったといいます。始皇帝が前214年に中国華南地方(嶺南地区)の攻略を命じた際、21歳で副将に抜擢されました。当初、50万人の大軍を率いていた大将・屠睢でしたが、現地人(越人)のゲリラ戦法に苦しめられ、あげく毒矢で命を失ってしまいます。北からの補給も行き届かず、最初の遠征は失敗に終わりました。

次に大将に命じられた任囂は、再び趙佗を副将として再度、南へ侵攻します。この時、任囂と趙佗が採用した作戦は、現地の越人の文化習慣を尊重し、大人しく帰順する者には手出しをしないという、いわゆる融和策でした。

当時の南越は、未開の地で、古の儀式や文化習慣が残っており、中原から来た人たちからは野蛮に見えていました。こうした見方を改め、現地人に歩み寄ったのです。この作戦は功を奏し、嶺南地区が秦の版図に入ることに成功させました。

その後、統治者となった趙佗は、北からやってきた中原の民と越人との融和を進めます。進軍してきた軍人男性と現地の女性との婚姻を奨励しました。現地の人材が育ってくると、政策決定にも積極的に現地人を登用します。こうしたことにより、先進的な西安一帯の中原文化と、現地の風俗習慣が結びつき、このエリアの文化的な一体化が急速に進みます。

このように、当時から高い統治能力を発揮していた趙佗ですが、それは南越国そのものの安定と発展にも関わってきます。趙佗は、非常に長命で、103歳で没したと言われています。その間、中原では、項羽と劉邦の争いから、劉邦の漢王朝建国、劉邦没後の呂氏の専横と呂氏の乱、文帝の時代を経て、武帝の時代を迎えていました。

趙佗は、基本的に、漢王朝とも融和の道を選びます。漢の臣下として朝貢を行うことで、漢と平和的な関係を維持し、経済的交流を行いました。前回の投稿でも紹介したように、この時、南越国は大いに発展します。途中、呂氏の時代には、あらぬ疑いをかけられ経済封鎖を受け、軍事的対立も迎えますが、呂氏の死後、趙佗はそれも乗り越え再び友好関係を築きます。

前137年、趙佗が没した時、既に彼の実子は皆没していたため、孫である趙昧(趙胡)が王位を継ぎました。しかし、彼の在位期間はわずか15年と短いものでした。そして、その更に11年後、南越国は前111年に滅亡してしまうのです。

2. 西漢南越王博物館

1983年、広州市の中心地からほど近い象崗山で非常に古い時代の墓が発見されました。後に中国考古学における80年代の5大発見の一つと呼ばれる歴史的な発見でした。

広州は、歴史的には首都が置かれたことがあまりないため、それまで大規模な墓は見つかっていませんでした。また、中国の長い歴史の中では、頻繁に墓の盗掘が繰り返されており、古い時代の墓が完全な形で発見されることは滅多にありません。しかし、広州で発見された墓は、非常に古い時代の大型の墓が、誰にも入られた痕跡がない状態で発見されたのです。

この時、考古学者たちはすぐに南越国の存在に思いを巡らせました。最も期待する墓の主は、南越国に絶対的統治者として君臨していた「趙佗」です。趙佗は、死後、自身の墓が盗掘にあうことを防ぐため場所は秘密にされてきました。

そんな考古学者に、答えを与えたのは1枚の金印でした。墓の主の胸元から出土したその金印には「文帝御璽」と刻まれていました。文帝は2代目趙昧を指します。ここから、この墓が前122年に没した趙昧の墓であることが分かったのです。

金印のサイズは、当時の秦や漢代のものよりも大きく、漢に対抗する南越王の意図を物語っています。また、ぶつかった痕跡や使用した跡も見られ、実際に趙昧が使っていた金印であることも分かりました。

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この墓からは、他にも「泰子」金印、「右夫人璽」金印という2枚の金印も出土しています。この他にも玉の装飾品、青銅器、刀剣、陶器、生活用品など、当時の暮らしを伝える数多くの宝物が、ほぼ完全な形で出土しています。

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中でも、特に歴史的研究価値が高いのが、これまでで最も年代が古く、その上、最も完全に近い形で残っていた「玉衣」です。当時は、玉は死体が腐るのを防ぐことができると信じられていました。そこで、死者に玉をつなぎ合わせた玉衣を着せ弔うのです。ここでは、全部で2291個の玉が生糸で繋ぎ合わされていました。遺体は既に朽ちて散らばっていたため、専門家が三年の時間をかけて復元したそうです。

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この墓の発見は、南越国の存在を見直す大きなきっかけとなりました。それまでは、南の野蛮な国とされていた南越国に、当時としても高い技術と進んだ文化が存在していたことが証明されたのです。

現在、この墓は、博物館として整備され、実際の王墓の中に足を踏み入れて墓室をじっくり見学することができます。また、発掘された出土品も、隣の博物館で鑑賞することができます。

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3.南越国の滅亡と感想

この「西漢南越王博物館」は、広州に観光で訪れたことがある人なら、一度は足を運んだことがあるかもしれません。それ位にメジャーな観光地となっています。

2200年前の秦や漢の時代に、広州に独立した国があったこと、そしてその国が非常に豊かに発展した国だったことを知らなくても、十分に楽しめる展示品が並んでいます。

また、個人的に最も興味が湧くのは、3枚の「金印」です。福岡市には、日本で唯一となる国宝の金印が展示されています。これは「漢委奴国王」。西暦57年に後漢の光武帝から与えられたものとされています。前122年に趙昧の金印が広州で埋葬されてから、179年後の出来事です。

前漢・後漢という時代の違いや、漢王朝が作ったものか、南越国が作ったものかという違いはあるものの、同じ漢代に作られた金印ですので、ここでよく福岡の金印との違いを観察してみるのも面白いものです。


さて、ここに葬られている「文帝・趙昧」は、性格は内向的で、病気がちだったと言われます。ここから先は、そんな趙昧と南越国の後日譚になります。

趙昧は、偉大な祖父である趙佗の跡を継いだものの、すぐに隣国の閩越から攻められる憂き目に遭います。この時は、武帝に助けを請い、難を逃れますが、武帝からは長安への入朝を命じられてしまいます。南越国に帰れなくなることを恐れた趙昧は、太子・趙嬰斉を身代わりに長安に送りました。

趙昧の死後、帰国した趙嬰斉は王位を継ぎますが、彼は暴君だったと言われています。短命で7年のうちに世を去ってしまいます。趙嬰斉には、長安に派遣される前に越人との間にもうけた長子「趙建徳」と、長安で知り合った邯鄲樛家の娘との間にもうけた「趙興」という二人の息子がいました。この時、後継ぎ問題が起こり、樛氏の力で趙興が王位を継ぐことになります。

趙興が王位を継いでも、その実権は太后となった樛太后にありました。漢の武帝は、そこに、かつて樛太后と恋仲にあった安国少季を送り込みます。樛太后は再び安国少季と恋仲に陥り、武帝に対して南越国が漢王朝に帰順する申し立てを行います。これは、南越国の臣下の反発を生みました。丞相・呂嘉により、趙興と樛太后は殺害されます。

呂嘉は、趙嬰斉のもう一人の子、趙建徳を王位につかせますが、この出来事は武帝に侵攻の口実を与えることになりました。武帝は前112年に南越国に向けて10万人の兵を進軍させます。翌前111年に趙建徳と呂嘉は捉えられ、ここに建国から5代93年に及んだ南越国は滅亡することになるのです。

また、広州はその後、漢の版図に組み込まれ、中国華南地方は完全に中国と一体化しました。それは、その後の時代も続き、五代十国時代には南漢王国の首都となったことがあるものの、基本的には中国の地方都市としての歴史を歩むことになります。

その際、大きな反発や、深刻な民族間、文化間の対立が起きなかったのは、趙佗の統治期間における平和的な民族融和策の功績なのかもしれません。未開の地だった広州を大きく発展させた趙佗。その失われた国の大いなる発展を、ぜひこの西漢南越王博物館で目にしてもらえればと思います。

なお、趙佗の故郷である石家庄には、趙佗を記念した「趙佗公園」という所もあるようです。そこもいつか一度行ってみたいものです!


《 ライチ局長の勝手にチャイナ!vol.17 》

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