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世界の果てまで行っても本当の自分なんて見つからない

昔、チリの南端から二週間の旅で150万円もかけて南極に行ったことがあるのだけどね。平均的で凡庸な自分が昔から嫌で嫌でしょうがなかった僕は、いつも自分の存在意義を証明するような誇りのような何かが欲しいと思っていて、その極めつけが南極に行くことだった。そんな稀少なマイルストーンがあればきっと自分も一目置かれる一角の人物になれるんじゃないかと信じて止まなかった、って感じで。だけど、現実は全然違った。「南極に行ったことがある」と自慢したところで「すごいね」と言われる程度で、自分自身もそれ以上のことは語ることもできなかった。あんなに時間もお金もかけたのに、結局自分は何者にもなれていなかったことに心底ガッカリしてた。

だけど最近、それも少しは意味があったんじゃないかと思えるようになってきた。今僕が会社でやってる組織づくりみたいなことは人の自然な心を尊重するところが根幹にある気がするのだけど、その根拠となる原体験は南極にあったんじゃないかなあって。人の手が全く入ってない雄大な自然の中で、ペンギンの匂いとか、クジラの息継ぎとか、流氷が崩れる音とか、ありのままの自然の美しさに感動した経験があるからこそ、人の自然な心の美しさみたいなものを大事にする考え方ができてるんじゃないかなと思う。地球規模で見たらありのままの自然で生きていることが美しく尊いのに、人間だけ自然な心を殺して機械的に生きているのは何かおかしいんじゃないか、そういう違和感を持てるのはきっとそういう原体験があったからこそなんじゃないかなあ。少しこじつけっぽいかもしれないけど。自分が何か無我夢中でやってることは無駄も多いし、手段が目的化しがちだし、短期的には意味がなかったと自虐的になってしまいがちだけど、きっと一生懸命夢中になっていることに意味がないことなんてないんだなあと自分で自分を励ますような話なんですが。

海外の旅って異国の上澄みの部分を無責任に堪能しているだけなのだけど、それでもやっぱり相当に時間とお金をかけて行くわけなので、どうしても意義を見出したくなったりする。それが行き過ぎると「旅で私はこう変わった」みたいな”自分探しの旅”みたいな話になってしまうのだよね。自分は結局、海外に行って社会的課題を見つけて、それを解決するビジネスを起業して、みたいな世の中の成功者と言われるような人たちが実践してるようなことは何もしていないし、ただぼんやりと楽しかったなあと思ってるだけで何者にもなれていないのだけど、自然とか文化とか、歴史に裏付けられたありのままの姿の美しさみたいな感性をぼんやりと持っているのは、たくさん海外を見てまわったからこそなのかなあと思うし、そういう感性を持てた自分のことが好きなので、今となってはとても満足している。結局は他人軸で考えるから、南極まで行っても冒頭の通り満たされなかったのだよね。そもそも、自分が行きたくて行っただけなんだから、意味は自分で考えればいいんだな。それを他人に求めるから苦しくなるのである。

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