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『かかわり方の学び方』 伊勢達郎さんたちの「とえっくラジオ」で…その4:民主主義、どうよ?

写真左から、伊勢達郎さん、プーさん、西村佳哲、フナ。2022年4月12日にライブ配信された「とえっくラジオ」より。

< その3:「おもしろい」ってなに?


その4:民主主義、どうよ?

西村 次、行きましょう。ちょっとでかいよ。民主主義の話。

ふな いいと思う。受けて立つって感じ。

西村 じゃあちょっといきますよ。あのー、達郎さんは「民主主義」をすごく信頼してると思うんだよね。信じようとしてると言うか。
 でもいまは〝自由と民主主義〟という名のもとに、とんでもない競争社会になっていたり、いろんなことが起こってますと。言葉自体が信用に足るものではないなと思っていて、私は民主主義という言葉を使わない。でも達郎さん結構よく使うなと思ってて。前に高校生たちと一緒につくったプログラム(*)があったじゃない。

*沖縄県民投票を応援する流れで、徳島で2020年2月に開かれた民主主義のお祭り「1億2千万のヒーローフェスタ/20年目の第十堰123から 1年目の辺野古224へ」
https://m.facebook.com/20thyoshinogawa123/

 その中の大熊孝さん(河川工学者)と若者が話を交わすプログラムにむけて、若者たち(高校生約10名)ともった民主主義を理解するための事前学習を、伊勢さんが担っていた。

西村 あのときも、彼らに民主主義についてちゃんと伝えようとしていた。民主主義にケリを付けようとしてるっていうか、そういう姿勢を感じてるんですよね。

 でも言葉ってやっぱり抽象概念だから。たとえば私が「デザインとは」みたいな話をしても、「デザイン」って言葉から連想してるものがみんな違うんですよ。見事に。芸術的なもの、として捉えていたり。設計・エンジニアリング・仕組みとかそういうことね、と受けとめていたり。また別のひとは、単純に色や形の話として聞いていたり。
 つまり「デザインって大事だよね」(「だよねー、うんうん」)とか言ってると、本当に噛み合わないっていうか。

 だから、抽象的な言葉を使わずに、その言葉がなかったらどう言うの?というところで話したほうがいいことがよくあるなと思う。
 それで民主主義っていうことを、「民主主義」を使わずに表現するとしたら、どういう言葉で言うんだろう。

ぷー すごいなー。使わないで。

達郎 使わないでね。「名とすべき名は、常の名に非ず」だね。タオイスト的な。「道とすべき道は、常の道に非ず」。これ受け売りなんだよ。中野民夫さんが「トエックは〝パーソンセンタード(Person Centered)〟って言うけど、非常にタオイスティックだね」って。
 老荘思想。名とすべき名は常の名に非ず。道とすべき道は常の道に非ず。「こうだよ」って言ったら。「民主主義」と言ったり「デザイン」と言ったら、それはもう既に違う。決めちゃうと。「こうすりゃいいよ」と言ったらもうすでに違うっていう。

西村 さっきの話に戻りますね。言っちゃうと答えを渡されたみたいな感じ、って。

達郎 まさに。
 

〝世界に関心がある。自分のことで目一杯でない。お互いに理解し合えている〟

ぷー (ウクライナについて話し始めたが配信が短く途切れた)…「信じちゃ駄目」だよって言われて。映像見て、わからなくなるよね。いっぱい人が死んでる。市民が死んでる。駄目ってみんな言ってる、思ってる。でも止まらないじゃないですか。
 で、ゼレンスキーさんみたいな人は、もちろんわかってるよ頭では、この人はウクライナを守るための指揮者として使命を果たしてるんだ、と思うけど納得はしてない。だって、どうしてこの人はこう服着て、こうやって痛まずに、違う人がこっちでどんどん死んでいくわけ?っていう。

 私は混乱するし納得もしていない。その向こう側には民主主義(とロシアの対立)が起こってるわけね、みたいなつたない理解だけど、まず(この戦争が)止まらないってことが、もうどうしたらいい?って思うし、学問としてっていうより民主主義。なんだったっけ? 「民主主義」という言葉を使わずに。

 そもそも使わなくていいんですよ。そうじゃなくて、平和に生きたいわけですよね。理解し合って、戦争がなくて、生きたいだけ。どうしてそれが実現出来ないのかなっていう問いだけなんですよね。私にとったら民主主義だろうがどういう言葉でも、あんまりね。

 理解し合って生きる世界を望むっていう人は、いっぱいいるじゃないですか。だから「きこう」って。きくこと大事って。話し合いで、って。武力じゃなくてって。そこまではみんな理解できる。
 けどこのひずみは起きてしまう。武力で、となっちゃうでしょう。ウクライナに限らずね。だから学ぶし。でも誰もここを止めれないって。どうしたらいい?っていう。ここの問いにはもう、民主主義もなにもないんですよ。私の中には。

西村 理解し合って。平和に、ってどういうこと?

ぷー 血を流さなくていいんじゃない?って。死ななくていいんじゃない? まずは。生きたいわけだからね。

西村 ウクライナを思い浮かべるとそういう言葉になるけど、普通にこう日常、生活されていて「平和だな」ってどういうときなの?

ぷー あぁ、空が青いって思えるとき。鳥が飛んでるなって。

西村 そういうふうに世界に関心を向けられている状態。自分のことで目一杯じゃなくて。そして理解し合えてる。ゆとりがあるとか。

ぷー 近いかも。いっぱいいっぱいになると、イガイガして。自分だってゆとりがないなって。欲との戦い。尽きないよね。

西村 ぷーさんも自分がこう余裕がない状態って。

ぷー めっちゃある。あるある。

西村 そういうときは、他の人がぷーさんの心に入る隙間がないってこと? 自分のことで目一杯で、外の情報が入ってこない。そういうときもある。

ぷー あるよ、あるよ。

西村 ぷーさんが言わんとする民主主義は、なんかちょっとわかった気はしている。〝世界に関心があって。自分のことで目一杯になっていなくて。お互いに理解し合えている〟という。

ぷー そうそう。ゆとりが絶対いる。
 

〝いろんな人が主導権というか、いろんな意見を持って、わーってグループが流れていくのはおもしろい〟

ふな パッとイメージが浮かぶのは、うちのフリーキャンプでの子どもたちやスタッフの姿が、やっぱり「民主主義だな」って思うところがすごく強くあって。

 個々が自分のワクワクしたりやりたいことをやったり、落ち込んでいたり。どんな状況でも、その人がその人でいていいという場があり。かといってそれが孤立じゃなくて、緩やかに一体感があって。単に優しいだけではないと思う。厳しいときもあるし。
 なんか人が人としてそのままで生きているのを、お互い保証し合ったり関心を持ち合っている場と、それが育つ土壌というか。

 たとえばキャンプで、あるいはちっちゃいグループでいうなら、そういうグループが出来上がってきて、新しい人が来たとしてもその人がその中で、「自分が自分であっていい」とか、ひと(他人)のことを認めて「この人は違うし、全く意見も違うけどこれはこれでいい」って互いに思える関係性みたいなのが、土壌が出来ていくのが、私は根本的に人間にあると思っていて。そういう能力って本来持って生まれてきていると思っていて。
 そんな場がキャンプだったり、スタッフだったり、お母さんたちの場だったり、フリースクールだったりっていうところが「民主主義だな」と思っているかな。

西村 まったく賛成。そうだよね、と思いながら聞いています。

ふな でも本当にそれこそ日々努力がいる。たとえば「こういう場に行けば」(じゃない)。たとえばキャンプも手抜いてやってない。ただ単に自由にさせてればそういう場になるんじゃなくて、やっぱりそれに対しては、関心を持って。
 さっきの教育の話と同じなんですけど、場に関心を持ったり、愛を持って関わる人がいるし、それをつくろうとする共同体みたいなのがいるなっていうのは思う。

 だからそんな簡単に民主主義というか、そういう場はできないし。(もともと)持っているものだけど、いろんなものが邪魔してうまくいかないことが沢山あるなっていうのは思います。

西村 ぷーは、民主主義っていう言葉自体は使わないと。ふなは使う?

ふな いやーあまり使わないですね。日常的にお喋りしてるときとかですよね。あんまり使わないかも。

西村 ま、そうだよな。

ふな でもそれこそ、大学生の育成をずっとやっていたので、子どものキャンプを支援する側として〝どんなグループになっていくか?〟みたいなところで言うと、やっぱりスタッフだし、年齢がいけばいくほど権威を持ってしまうけどそうじゃなくて。
 初めてキャンプに来た子の意見も聞いて、それも反映出来るような場って、誰か主たる権力者がいたらおもしろくないな、っていうのは自分の中にある。

 自分が主導権を握るのもおもしろくないし、誰かに握られつづけてるのもおもしろくない。いろんな人が主導権というか、いろんな意見を持って、わーってグループが流れていくのはおもしろいなって思う。
 

〝市民が学ぶ〟ことが民主主義の肝

西村 「民主主義」という言葉を結構具体的に大事にされているな、と思うのは伊勢さんなんだけど。

達郎 そうはいってもデモクラティック・スクールとは名乗っていないし、デモクラティック・キャンプとも言ってないんですね。フリーキャンプ、フリースクールですね。
 俺「自由」ってことばが好きやなー。だから民主主義が、みんなが自由。つまりじゃあ自由ってなにかっていうと、民主主義という概念でいくなら〝嫌なことは嫌って言える。「ちょっと違うんじゃない?」って言える。ちっちゃな言葉や、ちっちゃな声がちゃんと大切にされる。もちろん命が大事にされる。存在が大事にされる〟っていうことだと思うんですね。

 民主主義って言葉を使わないで、となったらもっと固くなるんだよね。「主権者教育」とか「いのちの教育」とかね。「多様性を尊重する教育」とか、なんかそっちのほうになる。
 「民主主義」が安易に一人歩きして、「民主的でありますから多数決で決めます」なんてのは学校教育でよく言ってることやから。

西村 そんなこと言うんだ。

達郎 「グループ学習」といったってすぐ集団責任に持っていく状況があると思うし。突き詰めれば、ぜんぶ、個人に返せるかどうか。個人が大事にされるかっていうことだと思うんですね。
 その論理でいくならば、プーチンさんだって8割を超える国民が支持していて、ウクライナの人々のために犠牲を払ってやってることを応援すると、ロシアの方は思ってて。僕らにとって直接情報じゃないから、そっちが正しいかもしれないのもゼロではないじゃないですか。

西村 そうですね。

達郎 なので不断の努力は要りますよ。日本で言うならたかだか(戦後)70年ですよね。ほんのちょっと前までは「民主主義」という言葉も吹っ飛んで、でもみんなの意志で本当にたくさんのたくさんの。日本がやっちゃったこともそうだし。やられたことを考えたら、アメリカも同じだけど。「ロシアが駄目」なんてとても言えないというか。
 いや言ってもいいけど、少なくともロシアは聞く耳を持たへんやろなっていうか、どの口が言うとるんっていう感じが。数じゃないけどね。となると、その流した血の中から僕たちは学んでいかんといかんと思うんですよ。ちゃんと騙されずに、賢くそのことを見ていく。〝市民が学ぶ〟ことが、民主主義の肝だと思うよね。多数決でなくて。

 とりあえず少数意見が尊重されて、多様性が尊重されて、起きてることをみんなが学んでいく。その力が主権者には、主権者が主権者として扱われたらそういうことかあるんだよっていうのが。堅苦しい話ですけど、権力者の都合のいいように使われんように。
 だから立憲主義と言って。こんな立派な憲法に日本はやっとたどり着いてね、持ってると。でもいまも権力を持つと虎視眈々と、上手に、粛々と巧みに。だって安倍さんは6兆円軍事(防衛費)なわけですよ。こんな状況なのに。でも支持されてるわけです。しかも若い方からの支持が強い。
 民主主義的(多数決的に)には「うん」という人が多い(ことになるわけだ)けど、僕らも含めて、そっち側の景色を見る学びが必要なんですよね。

 そういうことをしたいんですよ。だから熟議とかシチズンシップっていうの、そんなのが近いな。「民主主義」と括ってしまうと、確かに「みんなが納得したらそれでいいのか」みたいな。そんなの情報次第だしね。立憲主義と言われても、みんなピンとこないだろうしね。

 僕これまた誤解を生む言葉だけど最近よく言ってんのは、トエックの事務所がこっち(伊勢さんの実家。何代もつづいた農家)に来て、かなり(この地域の)ムラ社会と通じてんのね。「トエックの言う民主主義は〝満場一致〟だ」ってよく言ってるけど、ムラ社会は本当にそうなんですよ。
 「これどこに行くのかな?」みたいな話が延々とつづいたり本当ブレまくるんだけど、ちゃんと聞いて。それぞれの尊厳をちゃんと守って。大反対の人も含めて。ときどき間違ったこと言ったりもするんだけど、忖度し過ぎてその傾向はあるんだけど、でもね、とりあえずみんなの結論を出すんですよね。

西村 それは同調化ではなく?

達郎 んー微妙なとこですけどね。微妙なとこやな。

西村 でも、ある納得を練り上げるわけだ。

達郎 そう。その健全なストーリーは知ってます。健全じゃないのもある、公共事業とかね。
 祭り文化なんかは、本当よく出来てるなあと行くたび感心してね。合理性からすると相当無駄なことやってるんだけど。でもこれは、みんなが繋がるためにやってるんだなってのはすごくわかって。いやはや。

西村 伊勢さんの「民主主義」は、教育と直結してるんだな。

達郎 そうです。民主主義はそもそも教育の概念だと思ってる。
 主権者なんだから学ぶ責任があるし、専門家に任すんじゃなくて誰かに任すんじゃなくて、川も海も社会も僕たちのもんだから、だったら僕たちがちゃんと学んで、僕たちが決めていく必要があるんだっていう。だから不断の努力です。

西村 そうですよね、っていうときにまた「教育」(という言葉の意味づけ)が聞く人ごとに違うんだけど。まあ、でもそこが紐解けて私はとっても嬉しい。これちゃんとテープ起こししよう(笑)。

 伊勢さんとふなが、姫野さん(*)がまだご存命のときに「会ってほしい」って彼の事務所に案内してくれて。姫野さんからタッパーに入れたお芋をわけてもらったんだけど(笑)。

*姫野雅義:吉野川可動堰計画の是非を社会に問うた、徳島市の住民投票運動のリーダー。「第十堰(ぜき)住民投票の会」元代表世話人。司法書士。鮎釣りに出かけた海部川で亡くなる。享年63歳(2010)。著書に『第十堰日誌 』。共著に『環境と市民ガバナンス』『緑のダム』『川辺の民主主義』など。

西村 「なんでこんなに会わせようとしてくれてるんだろう?」ってわからなかったんだけど、その頃から伊勢さんが、ふなも、大事にしていて。これはニシさんにわかって欲しいというか、繋げないといけないと思って動いてくれているのをひしひしと感じていた。
 その流れの先で、民主主義の話は聞いておきたいなと思っていたんです。

達郎 まさに姫野さんですね。やっぱり絡ませたかったなぁ。これ言うと泣いてしまう。

ふな うん、いまグッときてます。さっきの達郎さんの「賢い市民になりなさい」は姫野さんに散々言われたっていうか。みんなに言っているけど、私は自分に言われてるような気がして。

達郎 一方で「市民を信頼しようよ」というのも口癖で。考えると僕のカウンセリングの先生が、「グループを信頼しようよ」「メンバーを信頼しようよ」って。これ全部そうだよね。極論「生徒を信頼すればいいんや」って、学校の先生もそう言って。松木(正)さんもそうだよね。「すべては信頼だ」ってね。

西村 しみじみ。
 

安易に手に入れた平和なんて、絶対にないはず

ふな 時間にはなっているんですけど、ガラッと変えて。トエックはオルタナティブスクールとかデモクラチックスクールと言われたりする。全国的にもすごく発展して。神山町でも、幼稚園、小学校が始まっていて(この4月にそれぞれ開園・開校した)。
 そういう状況を西村さんはどんなふうに思ってるかなって、きいてみたい。結構訪問されたりもしてますよね? トエックにもいろいろ人を連れて来てくれてるし、どういう意図なのかなと。

西村 そんなに意図もないんだけど。…こういうことを言うと、公教育の現場で頑張ってる人たちに申し訳ないからあんまりアレなんだけど、んー……公立校に通わせたくない親が多くなってるんだな、ということはすごく思うよね。実際、道徳の教科書でどんなことが扱われてるかを知ると、それはちょっとって思うからな………だめだ、言っちゃいけないことを言いそうになってしまいますね。そんなよく知らないですよ。でも…なんていうかな。それ言わないとなぁ(笑)。

ふな 迷いが(笑)。じゃあ、トエックのことをどうみてるというのは?

西村 ラブでしかない。批評的にみていないので、好きっていう。僕がすごく大事なものをもらったと思っている(以前交わした)ぷーさんのインタビューの中で、ぷーさんが「世界平和にはこれしかない」って。「パーソンセンタードアプローチ(*)しかないって思うんよ。小学校で教えたらいいと思うし、学校の先生もみんな、それしかないじゃない」っておっしゃっててね。
 それは切々と身に染みる。さっき、民主主義の話をしていても、ふなとぷーさんがしていたのはパーソンセンタード・アプローチの話だなと思って聞いていて。

*パーソンセンタード・アプローチ(Person centred approach) カール・ロジャーズが示した対人関与の姿勢。かかわりの中心軸を治療者や支援者の側でなく、本人(その人自身)に置く。

西村 それをこういう形で体現してくれている場がある。とても貴重なものを見せてもらってるなと、いつも思っています。

達郎 背筋が伸びますね。

西村 体現してるなって。

達郎 現場だからね。概念じゃないから、現場で体現しなかったらね。

 さっきの(西村さんが)言葉を飲んだところ。本意じゃないんだと思うんだよね。学校批判を言いたいわけじゃないし、ましてやいちばん本丸のところで活躍してる人たちのことを、批判して悪く言いたいわけじゃない。オルタナティブな。多様性を持ちましょう。
 「それじゃダメだからこっちなんだ」って、(論旨を)繋ぎやすいので。そこだけ切り取られると言いづらくなる。でも多様なことは、絶対的に自然で健康なことだから。「これしかない」というのはよくない。だからオルタナティブは必要なんだけど。そういう脈絡を理解してもらった上で、いま言えなかったことが言えないかなと。

西村 やっぱりそれぞれの現場で、不自由を感じながらも、ある枠組みの中でベストを尽くそうと踏ん張っている人は沢山いる。それは医療の現場でも、福祉の現場でもほんとそうだから。その人たちの仕事を批判するようなことは1ミリもしたくない。

 「そっちじゃなくてこっち」じゃないんだよね。そういう(対比的な)話し方、ヒステリックさと言うかエキセントリックなものって、響きやすいしわかりやすいから、そういう議論になりやすい。それをしちゃいけないなといつも思っています。

ぷー 右か左かじゃないんだよね。「自分はこっちを行く」ぐらいの話で。でもそうやって質問も来るね。

達郎 西光先生(*)は「勝負なし法」って言葉を使ってんだよね。最近は、ブレイディさん(*)が「他者の靴を履く」って。

*西光義敞:1972-94年、龍谷大学短期大学教授。専門は心理学(カウンセリング)・社会福祉学・仏教学。伊勢さんは同大学で学んだ。著書に『育ち合う人間関係―真宗とカウンセリングの出会いと交流』など。

*ブレイディみかこ:ギリス・ブライトン在住の保育士、ライター、コラムニスト。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』のほか、『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』など。

西村 相手が履いてた靴に、自分の足を滑り込ませてみる。

達郎 シンパシー(同情・思いやり・哀れみ)じゃなく、エンパシー(共感)っていう。これほんま1丁目1番地みたいに、僕らも学生のとき西光先生のところに行くときは、そこのことをすったもんだいっぱい学んだもんだけど。「『そうやそうや』って言うのは共感」って言いながらね。
 「そうだ、そうだよね、そうだよね」って、これでもいけるし。「でもこの論理でいくとそれ違うんだよね」っていうところを、ちゃんとエンパシーにして。「そうなのか」と。そちらの靴に足を入れて、「あ。こんな感じなんやな」って言えることが。

 だから「右か左じゃない」って言うけど、僕は「右」って言っていいと思うのね。オルタナティブな学校は。「左じゃないぞ」って言うんじゃなくて。「左じゃないと思ってるけど右なんだ」って言っていい。どちらとも言えませんでは話にならないから。
 でもこれはヒステリックに否定するわけじゃなくて、当たり前じゃないですか。多少毒のあるものも出てくるよそりゃ。それは自然界も一緒で、ムカデがいたり、なんか怖い。僕もクモ怖いんだけど。

西村 知らなかった。

達郎 そうなんよ。それだってこっち側の話なだけであって、向こうからしたら大きなお世話というかっていう見方をしたら、学校だろうがなんだろうが、多様になっていく方が絶対いいと思う。選択肢があまりにもなさすぎる。

ふな 書き込みで、「パーソンセンタード・アプローチってなんですか?」。

西村 そうだよ。

ふな ちょうどそこに西村仁志さんが、「民主主義は民が主なので、まさにパーソンセンタードですよねって」。

達郎 賢い!(笑)

西村 民主主義の「民」っていう漢字は、古代の象形文字に遡ると結構怖いんだよ。昔の中国で敵国を滅ぼすと、その人たちの目を潰して宮遣いにしていたという話。民って、刀が入ってるでしょう? この(上の)部分が目なの。めくらにするっていう。

https://urushi-art.net/hitokoto/2006/img/1103/00.html より

達郎 従わせるような感じか。

西村 人間を道具にするための状態が「民」という字であって。なんでそんな怖い字を、民主主義を語る人はそんなの使いたくないはずなのに。それもあってちょっと怖くて「民主主義」が使えないんだけど。

達郎 でも解釈によるよ。リフレーミングするならば、そんな辛い想いがあったからこそ、殺されまくった、押さえ込まれた「民」が主になるんだっていう。目が見えなかったとしてもね。

西村 なるほど。

達郎 それは東ティーモールしかり。ウクライナしかり。日本だってそうだ、と思うよね。簡単に、自分たちが安易に手に入れたものなんて、絶対ないはずなんだよね。「一票を使う」ってことは。
 パーソンセンタードについては、まぁいいか。

西村 『かかわり方の学び方』という本がありまして(笑)。あの中でわりにページを割いています。

ふな ですよね。ぜひお買い求めください。

西村 パーソンセンタード・アプローチを代表する本と言ってはいけないと思うけど(笑)。

ふな でもあれ一貫してそうですよね。

達郎 いい本ですよ。

ふな 時間になりそうなんですけど、ぷーさん、達郎さんから、西村さんに質問したいことありますか?
 

「こういうことを大事にしよう」って、言葉が長くなってもいいから、みんなで話し合って進めるのがいいよな

達郎 さっきの、「新しい学びとかとか、学校教育をどう思いますか?」ってのはきいてみたいな。

西村 そこについてそんなにないんだよ。あまり深く考えてないので出てくる言葉がないのは正直なところで。今日パスは3回までいいんだよね?

ふな そうですね。まだパス1です(笑)。なんかほら、まちづくりとか、ひとづくりとか、場づくりとか。そこで「きく」とか「共感」とか、西村さん大事にされてたじゃないかと思うんですけど、そのへん。

西村 「インタビューのワークショップ」で、きくことを見直して再構築するワークショップをもう11年ぐらいやってるけど。

ふな ライフワークみたいな。

西村 に、だんだんなってきた。そこでよく話すのは、「共感っていうのは結果だから」って。カウンセリングの講座とかだと最初から「共感しましょう」と教わるけど、結果的に起きるのが共感という状態だから、「その前にやることがあるよね?」っていう話はする。
 共感のことはあんまり教えないんだよね。共感状態が起こるための手つづきというか、そっちを分かち合っている。

 神山で、7年間ぐらいまちづくり的なことに関わってきたけど。そこではなんだろうな。そんなに人の話をきいて、たとえば住民さんたちにアンケートを取りましょうという進め方はしなかった。
 町役場の人は最初、住民アンケートを取ろうと言ったんですよね。彼としてはすごく真っ当な、民主的なプロセスなのだと思う。けど、たとえば意見をきくとかアンケートを取るとか、そういう形でつくれるものと、そういう形ではつくれないものがあるんだよね。

 意見を聞いてつくれるものは、基本的にみんなが知っているものになる。もし住民アンケートを取ったら、「いま(こういうことで)困っています」とか「(地域になんでも買える)スーパーマーケットが欲しい」とか、そういう話に絶対なる。「街灯を増やして欲しい」とかね。
 いま既にあるもののチューニングというか、改善、調整にはアンケートって向いてるんだけど、いままだないものが必要だとしたら、それは発明しなきゃいけないんだよね。そういうところで私は民主的ではなくて。デザイン教育を受けて、デザインの仕事をしてきたから。デザインは「みんなが欲しいものってこれ?」というのを、具体的につくって見せることなんですよ。で(事後的に)「そうそう!」ってなる。

達郎 本人も気づいていないような意を汲み取った。

西村 「汲み取った」と言うと語弊があるんですけど。社会的感受性は必要で。でもそこを信じていなかったら本なんて書けないですよ。すごく個人的な、でもただの自分の煩悶でなくみんなにとっても同じようにこう「わ!」ってなることだろうって思えるから、それを本に出来るわけで。

達郎 アンケート的じゃない。

西村 じゃない。

達郎 「組み立て民主主義」っていう言葉がありますよね。KJ法の川喜田二郎さんの。

西村 へえ。民主主義の運用の仕方がなんかバージョンがすごい低いまま、まあでも高い人もいて混じった状態なのに、「同じ民主主義の話をしてる」感じになっちゃうから色々問題が起こるというか。下手すると、ある人にとっては本当に多数決みたいな、あるいは「全員の声を1回聞きました」(「説明会は開きました」とか)でしかなかったりするし。

達郎 悪用するんだよ、それまたね。

西村 だからもうそういう言葉は使わずに、「こういうことを大事にしよう」って、なんかちょっと言葉が長くなってもいいから。みんなで話し合って進めるのがいいよなって思ってますね。

ふな また喋りたくなるけどお時間が来てしまったので、ありがとうございました。たくさん書き込みしてもらったり、アトリエ文具店さんから質問来てるんですけどちょっとごめんなさい、今回取り扱えなかったので。
 またぜひ徳島、神山にも戻って来てほしいし、遊びに来たりトエックにも来てもらって。ありがとうございました。そして、行ってらっしゃいになりますね。

西村 東京でお茶しましょう。一回、東京に行きます。

ふな はい。えっと投稿は引き続き募集していますので、メッセージの方よろしくお願いします。この配信は株式会社モノサスの多大な遊び心とチャレンジ精神にご協力をいただき成立しています。モノサスの皆さんありがとうございます。

テープ起こし:辰巳真理子


動画リンク 2022年4月12日の「とえっくラジオ」
・導入:ゲスト紹介、伊勢達郎・トエックとのつながりなど、なごやかな語らい
・その1:お金の話
・その2:学力の話
・その3:「おもしろい」ってなに?
・その4:民主主義、どうよ?

>「とえっくラジオ」
子育て・人間関係・教育現場の悩み事に、伊勢達郎・プー・ふな、トエックの3人が、楽しく真面目にこたえるネットラジオ。

*伊勢達郎さんのインタビューが収録されています