生きづらさと向き合う ~場面緘黙症の私の場合~③-2

 場面緘黙症の私が何に苦しみ、何を考えていたか。
 今回は初めて精神科へ行った20歳のころ~大学卒業。

 留学先で現地の友人とケンカをしてから、一気に精神的に不安定になった。スパルタな友人のおかげで1学期は最優秀学生賞に選ばれて表彰もされたが、夏休みに一時帰国するともう中国へは戻れないと実家の自室に引きこもった。言葉ではどうしても家族に言えなかった。
 母や祖母は「おじいちゃん(私が小学5年生のときにガンで亡くなった)が悲しむよ、あんなに可愛がってもらったじゃない」と悲痛な声で訴えてきた。祖父が何をしてくれた。家族みんな、苦しむ私を見ないふりしてなにもしてくれなかったではないか。死のうと思った。彫刻刀を首に当てたが、それ以上はできなかった。
 とにかく私にこれ以上は無理なのだ。私には普通の人のように生きることはもう無理なのだ、休ませてほしい、逃げさせてほしい。理由が欲しくて、ベッドの中に持ち込んだノートパソコンで「学校 話せない」と検索した。“場面緘黙症”はすんなり見つかった。なんだ、私はやっぱり病気だったんだ。

 場面緘黙症を紹介するページを画面に表示させたまま、ノートPCをベッドの脇に置いた。部屋に入ってきた誰かが読んでくれるだろうと思って。それを読んだかはわからないが、父が精神科の病院をネットで調べて母が連れて行ってくれた。体が固まって問診表を受付に持っていくこともできない私を母はただ急かしたが、通りかかった看護師さんが優しく声をかけて受け取ってくれた。ここならきっと私を救ってくれると感じた。
 そのうち待合室に深刻な面持ちの医師が現れて、「ちょうど専門家の先生が来る日があるので、そのときにお話ししましょう。これからしっかり治療していきましょう」と言ってくれた。母は「そんなに深刻だったんだぁ」と苦笑いした。おそらく母も、「おとなになれば話せるようになりますよ」という学校の先生の言葉を信じて、病気だとは思わなかったのだろう。
 後日、その専門家の先生の診察を受けた。「社会不安障害、昔の言葉でいうと対人恐怖症ですね」。やっぱり私は病気だったんだ。普通の人のようにできなくて良かったんだ。それから、ワーキングメモリが一般的な人より弱いらしかった。「特に数字に対して弱いみたいですね」という検査結果を聞いて母は大笑いをしたが、私は涙が止まらなかった。帰り道で申し訳なさそうに、「お母さんだって物忘れとかよくするよ?」と言った。だからなんだと思った。

 診断書をもらって留学を中断し、大学も休学することにした。今までズルズルと不登校もせずに普通の人と同じ道を歩んできたが、ようやく足をとめて休むことを許された。処方された薬のおかげもあったのか心が軽くなって、以前よりも行動範囲が広くなった。
 大学に復帰してもそれは変わらず、見違えるほどに明るくなって友人も増えた。苦手なことも変わらずにあった(自分から知らない人に声をかける・にぎやかな食堂で食事をするなど)が、それを避けても十分にキャンパスライフを楽しむことができた。
 まぁ、少し度が過ぎて「多少、傍若無人なほうが格好良いだろう」と空回りした痛々しい時期もあったが、就職も地元の中小企業にすんなりと内定がもらえて、なんの問題なく大学も卒業した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?