生きづらさと向き合う ~場面緘黙症の私の場合~①-1

 場面緘黙症の私が何に苦しんでいたか、何を考えていたかを幼少期から順を追って書いていきたい。
  今回は生まれ育った家庭環境と保育園時代の症状。
 家庭環境は場面緘黙症の発症に関係しないと言われるが、思うところがあるためあえて書いておく。


 私は人口5000人程度の小さな村の、特に人口が少ない山間の集落で農家を営む家庭に生まれた。幼少期の家族構成は、曾祖母・祖父母・両親・叔父・弟という大家族。
 ちょうど私が生まれたころは父が始めた花農家としての仕事がバブル期の需要と合致してとても忙しく、また年子の弟が生まれつき病弱で何度も長期入院したため、私は同居する祖父母か同じ村内に住む母方の祖父母に預けられることが多かった。
 どちらの祖父母も優しく寂しさや不満を感じたことはなかったが、両親はそこに私が特定の場面でだけ話さなくなる原因があると考えていたようだ。実の親がそばにいないことや弟が優先されることへの不満など、精神的な原因だと私に尋ねることなく勝手に決めつけていた。
 しかし、私はそうやって私の感情を決めつける両親の言動が、信頼されていないようで悲しかった。弟の誕生日にはなぜか私へのプレゼントも一緒に用意され、夏休みなど私が何か言う前に「うちは他の家とは違うからどこにも遊びに行けない」と何度も言い聞かせられた。
 きっと当時の私では話せなくなる理由をうまく説明できなかっただろうが、聞いてくれれば「お母さんが弟を優先しても、お父さんが仕事で忙しくても寂しくないよ」とは言えた気がする。


 母によれば「とにかく大人しくて世話のかからない良い子」だった私は、一般的な子どもと同じく3歳で保育園に入園する。実家から一番近い保育園はそもそもの人口が少ないため一クラス10人未満で、のちにとある教師から「そちらの少人数の保育園を選んでいたら、話せるようになっていたかもしれないね」と言われたが、同じ集落の人がみな村で一番大きな保育園を選んでいたため私もそちらへ通うことになった。
 通い始めた当初から保育園が嫌いで、知らない人しかいない知らない場所へ連れていかれることがとにかく不安で怖くて毎朝泣いていた。母から引き離されて園内に連れていかれても、一言も発さず無表情でひたすら自分のカバンを入れる棚の前に座っていた。先生や友人が「一緒に遊ぼう」と手を引いてくれれば大人しく従うが、自発的には動けずトイレにすらいけずに何度もお漏らしをした。家族とは会話もできるし、庭を駆け回って遊び、自分の意志でトイレにも行ける。家庭でできることが保育園ではまったくできなかった。
 ただ、保育士の先生もクラスの子も優しく、よく私の世話を焼いてくれた。たまに私が優しくされていることを良く思わない子から腕をつねられたり意地悪をされたりしたが、さほど嫌な思い出とは認識していない。当時から周囲に特別扱いされていることに優越感があり、その快感が勝っていたからだと思う。
 しかし、保育園は嫌いなままだった。今までしたことのない行動をすることが怖くて動けない。人に感情を知られるのが恥ずかしく、声が出なくなるし自由に笑うこともできない。保育園に行くと自分が自分でなくなってしまうから……というのは現在の私の想像で、当時はただ漠然と嫌いで仕方がなかった。休みたいがあまりに仮病を使ったり、単にぶつけてできた青あざをガキ大将的な存在だった男の子にいじめられたせいだと嘘をついたりした。
 そんな見え透いた嘘は、最初のうちは許されたがやはり通用せず、話せない・動けないままきっちり卒園まで通園し、小学校へ進学することになる。

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