生きづらさと向き合う ~場面緘黙症の私の場合~②-2

 場面緘黙症の私が何に苦しみ、何を考えていたかを幼少期から順を追って掘り起こしていく。
 今回はまったく話せない状態を脱した後、中学卒業~高校卒業。

 中学二年生のカンボジアへの旅を機に、学校で一言も話せなかった私が全校生徒の前で作文を発表し、「話せない人」から「話せる人」になった。直後は反響が大きく、自分も誇らしい気持ちでいた。
 しかし、適切な治療なく無理をした結果は、さらに大きな傷跡として今も私の中で疼いている。

 私が話せるようになったことを喜んで積極的に話しかけてくれる先生もいたが、残念なことに違う学年の先生だった。根性で場面緘黙を克服させようとした担任教師は、なぜかどこかよそよそしく腫物を触るように私を扱うようになった。それまで話せないことを責めることなく受け入れてくれていた同級生たちも、明らかに戸惑って距離を置くようになった。「話せない人だから仕方がない」というボーダーラインを失ってしまえば、相変わらずモジモジして薄ら笑いをしているだけの私はただの「おかしい人」だ。
 そして私自身も、不安を感じやすい性質はなんら変わっていなかったため、相変わらず自分から話しかけたり積極的な行動ができず、徐々に孤立していった。

 高校に入学すると、同じ中学出身の子がいたとはいえ、完全に普通の人と同じ扱いを受けるようになる。地獄だった。場面緘黙症でまったく話せなかった時期よりも、はるかにつらい時間を過ごした。
 自己紹介で趣味を話したとき、同じ趣味の子が話しかけてきてくれた。私の声はのどの奥で詰まって出なかった。授業中に当てられても、同じだった。休み時間に動くことができず、ずっと自分の席に座ったまま。担任に「各自、時間を見つけて職員室に来なさい」と言われても行けなかった。クラスメイトは私から距離を置き、教師は私を叱りつけた。
 家族に相談することもできず、ストレスをため込んで体調を崩すようになった。帰宅するたび無意識にため息をつくと「幸せが逃げるよ」と母は笑った。毎晩、腹痛にうずくまる私を両親は「どっか悪いの?」「さあ?」とただ見ていた。円形脱毛症ができているのを「ちゃんと髪を乾かさないからだ」と言った。
 そのとき私も、両親がなにかしてくれるとは思っていなかった。とにかく、ひたすら“時”を待つしかないと思っていた。卒業してしまえば、きっと何とかなると思っていた。

 いつのころからか休日はゲームに熱中した。体調が悪い時ほどゲームをして、現実逃避をした。さすがに昼夜を問わずということはなかったが、起きている時間はすべてゲームに費やした。部活動に忙しい弟が放置しているゲームをやりこみ、冷ややかな視線を浴びたこともあった。それでも、あのころはゲームだけが心の支えだった。
 卒業後の進路も、そのときにハマっていた『真・三國無双』の影響で三国志に興味を持ち、さらに中国のTVドラマ版三国演義を見て中国語に興味を持ち、大学に進学して中国語か歴史が学びたいと思うようになった。
 苦手な理数系の授業が少ない文系進学コースというクラスにいたため、幸いにも成績は良かった。成績優秀者には学費免除のシステムもある私立大学へ、指定校推薦ですんなりと入学が決まった。県外の大学だったため、念願の一人暮らしが叶うことになった。

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