生きづらさと向き合う ~場面緘黙症の私の場合~③-1

 場面緘黙症の私が何に苦しみ、何を考えていたか。
 今回は大学生時代。

 指定校推薦ですんなりと大学へ進学し、念願の一人暮らしを始めた。もともと車がなくてはどこへも行けない山奥の地で生まれ育ったため、ひとりで買い物にも行ったことがなかったが、案の定、一人暮らしを始めたころはスーパーに行くことさえ怖くてできなかった。大学の食堂も近寄れなかった。実家から送られてきたものを食いつないでいたのだが、ある日、鏡に映った自分のやつれた顔が恐ろしくなり、ふらつく足で買い物へ出かけた。
 行ってみればなんてことはない。お金の計算が不安だったが小銭はすべて貯金箱へ入れて出かけ、お札をレジに出してしまえば良かったのだ。
 結果的に荒療治ではあったが自分で望んで決めたことだったため、苦労よりもできることが増えていくのが嬉しかった。

 大学生活も楽しかった。通っていた大学がアットホームをうたい文句にしているだけあって規模が小さく、同期で中国語を専攻したのはなんと私含めて4人。それもそのうち2人が60歳以上の社会人学生だった。
 同年代とはうまく話せなかったが、年上の人とはなぜか話しやすかった。“敬語を使う”というのが、何かワンクッションになっているような感じだった。あっという間に打ち解け、講義中も和気あいあいでよく話しよく笑った。中国語も勉強すればするほど楽しく、成績も比例して教授とも仲良くなった。
 それから、中国人留学生を多く受け入れている大学でもあり、日本人の友人を求める留学生、特に女の子からは「理想的なおしとやかな日本人女性だから友達になりましょう」と声をかけられることが多かった。積極的でない性質がかえって彼女たちに受けていたのは少し皮肉である。

 中国語を専攻する学生は、三年時に1年間の北京留学へ行くことが推奨されていた。当時は中学二年生時のカンボジアへの旅を“誇り”のように思っていたため、留学へも当然のように行くつもりでいた。中国語の成績も良く、それほど困らないだろうと変な自信があった。
 しかし、異国でたった一人で生活するというのは想像以上にストレスだ。頭の中が石のように固まり、当時の自分の語学力なら理解できていただろう話がさっぱり聞き取れなかった。同じクラスの韓国人の女の子に話しかけられても会話にならず、当然、自分から誰かを頼ることもできなかった。さらに、私のクラスの先生は積極性を重視していて、いくらテストの点数が良くても授業で発言ができないと評価しないと言って私を睨んだ。
 また、中国という国は「並んで順番を待つ」という習慣がなく、我先にと他人を押しのけなくては料理の注文さえできないお国柄。食べ物はおいしいのだが、日々それを得るのが大変だった。
 ある日、人が少ない時間帯を狙い、紙に食べたい料理を書いて注文して食堂でご飯を食べていると、ひとりの女の子に話しかけられた。やはり話の半分も聞き取れなかったが、どうやら中国人で、私がまだ中国の生活に不慣れな留学生であると見て声をかけてくれたらしい。なんとか日本人であることとまだ中国に来たばかりであることだけ告げたが、あやふやな会話をしているうちに、なぜかその晩は彼女がひとりで暮らすアパートに泊まることになった。私はどうやら、世話を焼くのが好きな女性に好かれやすいようだ。
 それ以来、授業に出ている以外の時間はほとんど彼女と過ごすことになった。あちこち観光名所へ連れ出してくれたり宿題を手伝ってくれたり、それはそれは良く世話を焼いてくれた。しかし、それがかなりスパルタなのだ。どこかへ遊びに出かけると、「あの人に道を聞いてきて!」と課題を出される。彼女のアパートで中国語を教えてもらっていると「わかるまで帰さない!」と外が真っ暗になるまで拘束された。「友達は助け合うのが当然だから」と、彼女が勉強する英語が母国語の留学生を探して紹介しろと言われたこともあった。
 おかげで中国語は格段に上達したが、日に日に疲弊していった。体調が悪いからと会うのを避けてもメールがひっきりなしに来た。そうして、「どうしてそんなに消極的なのか、自分の意見を言わないのか。あなたと友達になった気がしない」と言うメールが来たとき、ぷつりと切れてしまった。「私は精神障害者だからしょうがないでしょ!」と返事をしながら泣いた。
 それはきっと、幼いころからずっと叫びたかった言葉だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?